この箇所を深く考えれば考えるほど、私たちがどのような存在になるのかに心が動かされます。
私たちの体は朽ちることなく、永遠に生きるものとなります。病にかかることもなく、傷つくこともありません。
さらに、パウロはこう述べました。
私たちは、土で造られた人(アダム)のかたちを持っていたように、天に属する方(イエス様)のかたちも持つことになるのです。(コリント人への手紙第一15:49)
パウロによれば、私たちの新しい体はイエス様のかたちを持つことになります。そして、イエス様が神様のかたちであるため(コロサイ1:15)、私たちは今よりもさらに神様のかたちを映し出すことになります。
アダムの子孫として、私たちは皆アダムの弱さを受け継いでいます。嫉妬、欺瞞、苦々しい思い、怒り、憎しみ、そして罪。それらによって、私たちにある神様の似姿は歪められています。
今の私たちの体は、かすかに神様を反映しています。けれども、新しい体を受けると、私たちは天使以上に神様の似姿をさらに映し出すことになります。
だからこそ、ヨハネはこう語りました。
しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(第一ヨハネ3:2)
それでも、今の私たちの体を軽んじてはいけません。
パウロはこう書きました。
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの輝きと地上のからだの輝きは異なり、太陽の輝き、月の輝き、星の輝き、それぞれ違います。星と星の間でも輝きが違います。(40-41)
つまり、神様が造られたものは、それぞれに輝きを持っているということです。
私たちの体は、不完全であり、朽ちゆくものですが、それでも固有の輝きを持っています。
目について考えてみてください。さまざまな部分が協力して働くことで、私たちは物を見ることができます。
また、耳も精巧なデザインを持っているため、私たちは音を聞くことができます。
さらに、脳と指の働きについて考えてみてください。何かを考えた瞬間、指はキーボードを打ちます。
私たちはこれらの機能を当然のものとして受け止めていますが、実はそれは驚くべきことなのです。
もちろん、私たちの体は不完全なものです。しかし、私たちを変えるために、神様は新しい体を受ける日まで待っておられるのではありません。
むしろ、パウロはこう述べています。
私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。第二コリント3:18)
だから、私たちの将来の体だけに喜びを見出すのではなく、今の体の輝きにも目を向けましょう。
たとえぼんやりとしたものであっても、今の私たちの体は神様の栄光を映し出しています。だからこそ、私たちは周りの人々にその栄光を反映できるよう努めましょう。
