私はこの箇所が大好きです。この言葉を覚えておくべきだと思いますが、まだ完全にはできていません。
これは、パウロの勝利の叫びです。
そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、このように記されたみことばが実現します。「死は勝利に吞み込まれた。」(コリント人への手紙第一15:54)
もしかすると、パウロは預言者イザヤの言葉を引用したのかもしれません。
(主は)永久に死を吞み込まれる。(イザヤ書25:8)
そしてパウロはこう叫びました。
「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。」(55)
パウロは興味深い箇所を引用しました。その言葉はホセア書13:14からのものです。この箇所を正確に翻訳するのはやや難しいですが、新改訳は、ある英語の聖書と同様に、次のように訳しています。
「私はよみの力から彼ら(つまり、イスラエル人たち)を贖い出し、死から贖う。」
けれども、別の英語の聖書では異なる翻訳と解釈が示されています。それは、
「わたしは、よみの力から彼らを贖い出し、死から彼らを贖うだろうか?そうはしない。死よ、おまえのとげはどこにあるのか?私たちの民を殺せ。よみよ、おまえの針はどこにあるのか?私たちの民を刺せ。」
つまり、神様はイスラエル人たちを彼ら自身の罪のために裁いていたということです。彼らは神様に対して不忠実だったため、裁きを受けました。
ところが、パウロはこう語っています。「神様はこの言葉を通して、人々を罪のために裁かれましたが、神様はその同じ言葉を用いて、かつて人々を支配していた罪と死に対する勝利を宣言されます。」
そして、パウロは続けてこう言います。
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。(56)
「とげ」とは、バラのとげのようなものではなく、蜂やサソリの針のようなものです。また、「突き棒」という意味も含まれています。
そのため、罪はサソリの毒を持つ針のように私たちを刺し、その結果、死をもたらしました。また、突き棒のように、罪は私たちを破滅へと追いやりました。
パウロによれば、罪の力は神様の律法です。なぜなら、私たちはその律法を完全に守ることができなかったからです。
私たちは律法を知っていましたが、罪深い心のゆえにそれを破り、罪を犯しました。したがって、私たちは神様の裁きを受けるべき存在でした。(ローマ書7章)
しかし、イエス様がこの世に来られたとき、私たちの代わりに律法を完全に守られました。それだけではなく、十字架にかかり、私たちの罪のために死んでくださいました。
その結果、私たちはもはや律法の管轄下にはありません。むしろ、私たちは恵みの管轄下にあります。したがって、律法はもはや私たちに力を持ちません。
そして、律法が私たちに対する力を持っていないのなら、罪もまた私たちを支配する力を持っていません。
簡単に言えば、罪のとげは取り除かれたのです。
だからこそ、パウロは喜びをもって宣言します。
しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(57)
では、私たちにとって、これにはどのような意味があるのでしょうか。
私たちはもはや神様の裁きを恐れる必要はありません。それゆえ、死をも恐れることはないのです。
神様は私たちを呪おうとされるのではなく、むしろ、ある日、新しい体を与えてくださいます。私たちは永遠に神様に栄光を帰し、受けた恵みを喜び続けることができるのです。
あなたはどうでしょうか。死を恐れますか?それとも、あなたはパウロとともに喜びの歌を歌うことができるでしょうか。
死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。(55)
