この世の現実や悪を目の当たりにすると、失望するのは容易なことです。しかし、クリスチャンとして、私たちは希望を持っています。なぜでしょうか。
パウロはこう記しました。
主を愛さない者はみな、のろわれよ。
主よ、来てください。主イエスの恵みが、あなたがたとともにありますように。(コリント人への手紙16:22-23)
その最初の言葉は厳しく感じるかもしれませんが、これは紛れもない現実です。主を愛さない者は呪われています。
彼らは神様の律法を破り、救いの唯一の方法――つまり、イエス様を拒絶しました。中には、イエス様を呪うことさえする者もいます。(第一コリント12:3)
けれども、イエス様を愛する私たちのために、イエス様ご自身が呪われたのです。パウロはこう記しました。
キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
イエス様は十字架において、私たちの罪の代価を支払い、律法の要求を満たされました。しかし、それだけではなく、イエス様は復活し、死に打ち勝たれました。
イエス様は生きておられるので、私たちは永遠に生き続けるという確信を持つことができます。(ヨハネ14:12)
イエス様が再びこの世に来られる日、私たちは瞬く間にキリストに似た者とされます。そのとき、すべての涙は私たちの目からぬぐい取られ、すべての悲しみは消え去ります。
だからこそ、パウロのように私たち皆が「マラナタ」、つまり「イエス様、来てください」と叫ぶのです。
けれども、私たちにはもう一つの希望があります。それは、イエス様が来られるその日まで、イエス様が私たちに恵みを与え続けてくださることです。
私たちが罪を犯しても、失敗しても、イエス様は毎日私たちのためにとりなしをしてくださいます。試練に直面するとき、イエス様は私たちに力を与えてくださいます。そして、イエス様は私たちの内に始められた良い働きを完成へと導いてくださいます。(ピリピ1:6)
だから、どんな状況にあっても希望を失わないようにしましょう。むしろ毎日、信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さず歩み続けましょう。イエス様にある私たちは、希望と命を持っているのです。
