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コリント人への手紙第二

キリストの手紙

コリント人への手紙第二3章

私は年寄りなのかもしれません。まだ手紙を書くことや受け取ることを覚えているからです。

私は大学生の時にメールを送ったり受け取ったりしていましたが、当時はまだメールがあまり普及していませんでした。そのため、日本に来る際には家族に航空書簡を送りました。

(航空書簡を知っている人はまだいるでしょうか。)

今なお友達からの手紙を持っていますが、最近はまったく手紙をもらっていません。

さて、パウロは私たちを「キリストの手紙」と呼びます。彼はコリント人たちにこう言いました。「私のミニストリーの妥当性を証明するために、あなたたちからの推薦状は必要ありません。」

むしろ、

私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心に書き記されていて、すべての人に知られ、また読まれています。

あなたがたが、私たちの奉仕の結果としてのキリストの手紙であることは、明らかです。

それは、墨によってではなく生ける神の御霊によって、石の板にではなく人の心の板に書き記されたものです。(コリント人への手紙第二3:2-3)

私たちがすべての人に知られ、また読まれているキリストの手紙であるとは、どういう意味でしょうか。

それは、人々が私たちの人生を見ると、イエス様が生きておられ、この世で働いていることが分かるということです。

なぜなら、私たちの歩みを通して、イエス様が私たちの人生の中で働き、私たちを変えていることを人々は見ることができるからです。

モーセの時代、神様は律法を通して、ご自身がどのような方であるかをユダヤ人たちに示されました。特に十戒を通して、神様はご自身の性質を明らかにし、私たちがどのように生きるべきかを示されました。

しかし、その石の板ができることは、それだけでした。つまり、その石の板はユダヤ人たちに(また、私たちにも)心を変える力までは与えることができませんでした。

でも、私たちがクリスチャンになると、神様はご自身の律法を私たちの心に書き記されます。

その律法は、私たちにどのように生きるべきかを教えるだけのものではありません。むしろ、御霊が私たちの心を変えてくださるのです。

毎日、御霊は私たちにささやかれます。「これが道だ。これに歩め。」(イザヤ書30:21)

そして、御霊に従うにつれて、私たちは主の栄光を映し始め、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていきます。(18)

要するに、私たちが少しずつ踏み出すことで、ますますキリストのようになりつつあるのです。次の栄光の段階に到達すると、周りの人々はこう気づきます。

「イエス様は本当に生きておられる。このクリスチャンを通してそれが見える。このクリスチャンを通して、イエス様がどのような方なのか分かる。」

このように、私たちは彼らへのイエス様の招待状となるのです。イエス様は彼らに言われます。「私のもとへ来なさい。そうすれば、このクリスチャンのように、あなたも本当のいのちを知ることができる。」

毎日、イエス様の手紙となりましょう。神様がご自身の言葉を私たちの心に書き記し、周りの人々がその栄光を見て、神様を知るように。

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