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コリント人への手紙第二

私たちは誰を宣べ伝えるのか

コリント人への手紙第二4:5-15

周りの人々は私たちを見て、どのような人物だと思うでしょうか。

多くの場合、私たちは自分の立場や実績によって人々を感動させたいと願います。正直に言うと、私自身もその誘惑と日々戦っています。

誰もが周りの人々に認められたいと願います。しかし、もし人からの栄誉を求めて生きるならば、私たちは神様が与えられた目的を見失ってしまうのです。

パウロはこう書きました。

私たちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕えるしもべなのです。(コリント人への手紙第二4:5)

パウロは自分自身を売り込もうとはしませんでした。彼は自分の立場や実績によって人々を感動させようとはしませんでした。むしろ、パウロはイエス様のことを宣べ伝え、周りの人々をイエス様のもとへ導きました。

自分自身について、パウロはイエス様が命じられた態度を持っていました。

同じようにあなたがたも、自分に命じられたことをすべて行ったら、「私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい。(ルカ17:10)

だから、パウロは自分自身について語る際、基本的にこう言いました。「私は取るに足りない者です。大切なのはイエス様なのです。」

彼はコリントの人々にこう語りました。

私たちは、この宝(つまり、神の栄光を知る知識)を土の器の中に入れています。

それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。(コリント人への手紙第二4:7)

つまり、「私たちはただの器にすぎません。しかし、それは宝を宿す器です。さらに、私たちは弱く、壊れやすい存在です。」ということです。

パウロはこう勧めました。

私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。

途方に暮れますが、行き詰まることはありません。

迫害されますが、見捨てられることはありません。

倒されますが、滅びません。

私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。

それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。また、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。(8-11)

要するに、「私たちは弱く、すでに打ち砕かれたはずです。外には戦いがあり、内には恐れがありました(7:5)

私たちは途方に暮れ、迫害され、倒されました。私たちは常に死の危機に瀕しています。

しかし、私たちが今も生きている理由は、私たち自身の偉大さではなく、むしろ、私たちのうちにおられるイエス様の偉大さです。そして、私たちの試練の中で、イエス様のいのちは私たちの弱いからだを通して輝きます。」

これこそが、私たちのための神様の目的です。神様が望まれるのは、イエス様が私たちの人生を通して輝くことです。そして、その光が私たちの周りの人々の心を照らし、彼らが救われることです(6)。

だから、パウロはこう語りました。

こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働いているのです。(12)

私たちは自分自身に問いかけるべきです。「私は誰のために、また何のために生きているのか。私の動機は何なのか。」

パウロにとって、その答えは明確でした。

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。(13-14)

パウロは、イエス様が私たちのために死んで、よみがえられたことを確信していました。また、パウロは、神様がパウロだけでなく、そのミニストリーを通して触れた人々も復活させることを確信していました。だからこそ、パウロは福音を宣べ伝えました。

あなたはどうでしょうか。イエス様があなたのために死んで、よみがえられたことを信じますか。あなたは、自分だけでなく、イエス様を信じる家族や友人、知人も復活することを信じますか。

あなたの人生は、あなたが何を信じるかを示します。

私たちは自分自身を売り込もうとしているでしょうか。それとも、人々をイエス様へと導いているでしょうか。私たちは自分の栄光を求めているでしょうか。それとも、神様に栄光を帰そうとしているでしょうか。

日々、パウロの態度を持ちましょう。

すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。(15)

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