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コリント人への手紙第二

真新しい視点

コリント人への手紙第二5:16

パウロはクリスチャンになった時、まったく新しい視点を与えられました。

救われる前、彼はクリスチャンたちを迫害していました。その時、彼は自分が神様の御心に従っていると信じていました。しかし、救われた後、彼はすべてを新しく認識しました。

パウロはイエス様の真の姿を目の当たりにし、さらにキリストが彼のために十字架で何をされたのかを理解し始めた時、彼の生きがいが根本的に変わりました。

イエス様を愛するようになったことで、イエス様についての彼の考え方も、周りの人々についての考え方も変化しました。

そのため、彼はこう記しました。

ですから、私たちは今後、肉にしたがって人を知ろうとはしません。

かつては肉にしたがってキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。(コリント人への手紙第二5:16)

クリスチャンになる前、パウロはイエス様を単なる人間と見なしていました。さらに、彼はキリストを神樣を冒涜する者と考え、神樣から呪われた存在だと思っていました。

そして、クリスチャンたちを異端視し、異邦人を部外者と見なしていました。

しかし、クリスチャンになった後、パウロは彼らを新しく認識しました。彼らが神樣に愛される民であることを悟ったのです。

同様に、私たちがクリスチャンになる時、キリストについての考え方だけでなく、周りの人々への見方も変わるはずです。私たちは世の基準で人々を判断してはいけません。

この世は、人を美しさ、知性、富、魅力によって評価します。そして、それらを持たない者を切り捨てます。

けれでも、もし私たちがそのような価値観で人を見てしまうなら、極めて重要なことを見失うことになります。人は皆、神の似姿として造られているからです。

もちろん、彼らを見る時、その似姿が大きく歪んでいるように思えることもあるでしょう。それでも、彼らは神の似姿に造られました。

だからこそ、神樣は彼らを大切にされます。そのため、神樣はあなたのためだけでなく、彼らのためにもイエス様を十字架に送られたのです。

それならば、どうして私たちは彼らを軽蔑することができるでしょうか。

正直に言うと、私にとって、そのような考え方を持つのは難しい時もあります。ある人々は、愛することが容易ではありません。それでも、神樣は彼らを愛しておられます。

もし私が彼らを愛せないなら、それは私の心の問題です。彼らを見る時に、神の似姿を認識できないならば、それは私の霊的な目が曇っているのです。

あなたはどうでしょうか。愛するのが難しいと感じる人を知っていますか。

主よ、あなたにあって私は新しく造られた者です。あなたが誰であるかを知るようになりました。どうか、私が周りの人々が誰であるかを理解できるように、私の目を開いてください。

つまり、彼らをあなたの似姿として造られた者として見ることができるように助けてください。彼らを私の愛に値する者として見ることができるように助けてください。

私の傲慢な態度を赦してください。私の心を変えてください。私に新しい目を与えてください。あなたの目を与えてください。私があなたのように愛することができるように助けてください。アーメン。

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