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コリント人への手紙第二

和解のメッセージ

コリント人への手紙第二5:16-6:2

さまざまな試練や苦しみに直面するとき、クリスチャンは神様ができるだけ早く天国へと導いてくださるよう願うことがあります。神様はなぜすぐにそうされないときがあるのでしょうか。

いくつかの理由がありますが、最も大きな理由は、私たちがこの世でまだ果たすべき役割があるからです。

16節でパウロは、もはや人間的な基準で人々を見るのではなく、神様の基準で見るべきだと語っています。

では、神様はこの世の人々をどのように見ておられるでしょうか。彼らは神様の似姿として造られているため、神様の目には尊い存在です。

もちろん、私たちも神様の目には尊い存在ですが、それだけではなく、神様は私たちをキリストの使節として見ておられます。

ローマ帝国には2種類の属州がありました。一つはローマ帝国の支配を喜んで受け入れた属州で、これらは元老院の支配下に置かれていました。

一方で、ある属州はローマ帝国の支配に対して敵対的な態度を持っていました。これらの属州は直接カエサルの支配下にありました。そして、平和を保つために、カエサルはその属州に使節を送りました。

それがパウロの例えです。この世のすべての人々は神様の似姿として造られました。しかし、多くの人々は神様に対して敵対的な態度を持ち、反抗します。

では、神様の使節として、私たちはどのようなメッセージを伝えるべきでしょうか。それは敵対的なメッセージでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、私たちは和解のメッセージを伝えます。

私たちはキリストに代わって願います。

神と和解させていただきなさい。神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。(コリント人への手紙第二5:20-21)

それが福音のメッセージの中心です。

神の御子イエス様はこの世に来られ、完全な人生を歩まれました。決して悪を行わず、悪しき思いを抱かず、神様の命令に逆らうこともありませんでした。天の父が「その良いことをしなさい」と言われると、イエス様はいつも従われました。

それでも、罪をまったく犯されなかったにもかかわらず、イエス様は十字架につけられました。その時、神様は私たちのすべての罪をイエス様に負わせ、イエス様は私たちの罰を身代わりとして受けられました。

イエス様の十字架の御業によって、私たちがイエス様を信じるならば、神様はもはや私たちを罪人と見なされません。むしろ、イエス様の義が私たちを完全に覆い、神様が私たちをご覧になるとき、その義だけを見られます。

パウロの言葉を借りるなら、私たちは義と認められます。神様は私たちに対して、「無罪の者である」と宣言されます。

さらに、神様はイエス様の義の御業を、私たちの義のわざとして認めてくださいます。

では、その和解の賜物を受けるために、私たちはどうすればよいでしょうか。ただ、そのメッセージを信じ、受け入れることです。

これこそが和解のメッセージです。しかし、もう一つ重要な要素があります。それは、そのメッセージの緊急性を理解することです。

パウロによれば、私たちは彼らに懇願するべきです。「今、機会を見逃さないでください。待たないでください。」(コリント人への手紙第二6:1)

神は言われます。「恵みの時に、わたしはあなたに答え、救いの日に、あなたを助ける。」見よ、今は恵みの時、今は救いの日です。(6:2)

人々は、自分がいつ亡くなるのかを知ることはできません。悲しいことですが、心を頑なにし、待てば待つほど、そのメッセージを受け入れることが難しくなります。

ある歌は、私たちの願いをこのように伝えています。

Tomorrow.
明日ですか。
Forget about tomorrow.
この決断を明日まで先延ばしにしないで。
Won’t you choose the Lord today.
今日こそ、主を受け入れませんか。
For your tomorrow could very well begin today.
そうすれば、あなたの明日、つまり、あなたの将来は、今日始まるかもしれません。

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