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コリント人への手紙第二

霊的な経験より重要なもの

おそらく、コリントの偽教師たちが自分の啓示や幻を誇っていたため、パウロは自らの優れた霊的な経験を語り始めました。

彼は天国に行き、神様の御前に立ちました。(それが実際に起こったのか、それとも幻だったのか、パウロ自身は知りませんでした。)

それでも、その経験について話した後、パウロはこう言いました。

しかし、その啓示があまりにもすばらしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、だれかが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう。(コリント人への手紙第二12:6)

パウロの言葉の意味は何でしょうか。

私たちには皆、それぞれ霊的な経験があります。もちろん、その経験の大切さを疑うことはありません。しかし、その経験によって、自分の霊的な偉大さを誇るべきではありません。

私たちの霊的な成熟は、毎日の言葉や行動によって証明されます。周りの人々は、そのことに気づくはずです。

彼らは私たちの霊的な経験そのものではなく、むしろ神様が私たちを通して話し、働き、人に触れておられることに気づくのです。そしてそれは、私たちの栄光のためではなく、神様の栄光のためなのです。

あなたには、素晴らしい霊的な経験があるでしょうか。それは祝福です。

しかし、本当の霊的な経験は、ただ心を躍らせるためのものではありません。むしろ、その霊的な経験を通して、私たちの日々の言葉や行動が変えられていくはずです。

あなたの霊的な経験は、どのように日々の言葉や行動を変えてきたでしょうか。

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コリント人への手紙第二

真のリーダー

このパウロと偽使徒の話から、私たちは真のリーダーの特徴を学ぶことができます。つまり、真のリーダーは何をすべきか、何を避けるべきかということです。

1. 真のリーダーは、自分自身を誇る必要がありません。

パウロが自らを誇ったのは、コリントの人々の弱さのためでした。彼らは偽使徒の資格に過剰に感動していたのです。

パウロは何度も、自分を誇りたくないと語っていました。それでも、コリントの人々の尊敬を得るために、彼は偽使徒と同じように、自身の資格について語らざるを得ませんでした。

しかし、通常の状況では、真のリーダーはそのような行動をとるべきではありません。

真のリーダーは、自分の才能や賜物、そしてミニストリーのすべてがイエス様から与えられたものであることを認めます。だからこそ、彼らは誇ることなく、謙遜な態度をもって人々を導くのです。

2. 羊が罪を犯したとき、真のリーダーはその羊を厳しく戒めなければならないかもしれません。けれども、そのリーダーは暴力を振るわず、羊の弱さにつけ込むことはありません。

その一方で、偽使徒たちはコリントの人々を「奴隷にして、食い尽くし、強奪し、その頭をたたきました。」(コリント人への手紙第二11:20)

残念ながら、今もなお、あるリーダーたちは自分の立場を乱用しています。しかし、パウロによれば、真のリーダーは自分に反対する人々を柔和に教え導きます。(第二テモテ2:25)

3. 真のリーダーは羊を心から愛しています。(28-29)

だから、リーダーは信仰の弱い人を励まします。私たちの大祭司イエス様のように、リーダーたちは羊の弱さに共感します。(へブル書4:15)

そして、誰かが羊をつまずかせたら、リーダーはイエス様のように憤ります。(マルコ9:42)

4. 真のリーダーはいろいろな苦しみを自ら望んで耐えます。

パウロは豪華な人生や快適な生活を求めませんでした。むしろ、パウロは迫害や様々な困難、眠れぬ夜や飢え渇きを経験しました。(23-27)

これらは真のリーダーの特徴です。

あなたは教会のリーダーでしょうか。牧師でしょうか。日曜学校の先生でしょうか。バイブルスタディーのリーダーでしょうか。

あなたはパウロのようなリーダーでしょうか。

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コリント人への手紙第二

別のイエス、異なる霊、異なる福音

この箇所では、私たちは重要な真理を学びます。それは何でしょうか。

人々が自分をイエス様の代表者だと主張するとき、御霊を持っていると主張するとき、また福音を伝えると主張するとき、私たちはその主張をただ受け入れるべきではありません。

なぜでしょうか。その理由は、パウロがコリントの人々に語った言葉の中に見いだせます。

蛇が悪巧みによってエバを欺いたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する真心と純潔から離れてしまうのではないかと、私は心配しています。

実際、だれかが来て、私たちが宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいは、あなたがたが受けたことのない異なる霊や、受け入れたことのない異なる福音を受けたりしても、あなたがたはよく我慢しています。(コリント人への手紙第二11:3-4)

パウロの懸念は、コリントの人々がエバのように欺かれ、キリストから離れてしまうことです。どうしてそのようなことが起こり得るのでしょうか。

それは、彼らが別のイエス、異なる霊、異なる福音に惑わされるからです。

あなたはこう思うかもしれません。「ちょっと待って。ただ一つのイエス、ただ一つの聖霊、ただ一つの福音だけだと思っていたけど。」

その通りです。しかし、同時に、偽のイエス、偽の御霊、偽の福音が数多く存在します。人々を欺く働き人、そしてキリストの使徒になりすました偽使徒たちが、その偽の福音を教えているのです。(13)

パウロによれば、私たちはそのことに驚くべきではありません。なぜでしょうか。

サタンでさえ光の御使いに変装します。ですから、サタンのしもべどもが義のしもべに変装したとしても、大したことではありません。

彼らの最後は、その行いにふさわしいものとなるでしょう。(14-15)

パウロはすでに自身の時代にその現象を目の当たりにしていました。コリントの教会では、一部の人々がパウロの教えに反対し、さらにはパウロ自身にも反対したため、信徒たちは混乱してしまいました。

また、新約聖書の中には、偽教師が誤った教えを広めた例が数多く記されています。

ある者たちは、別のイエスについて教えました。彼らによれば、そのイエスは人間としてこの世に来ていないというのです。(第二ヨハネ1:7)

彼らは異なる霊の力によって教えていたため、ヨハネは教会に警告を発しました。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。(第一ヨハネ4:1)

彼らは異なる福音を宣べ伝えました。彼らによれば、本当のクリスチャンはユダヤ人の律法に従わなければなりません。(ガラテヤ人への手紙を読んでください。)

今もなお、偽のイエスがいます。モルモン教によれば、イエスはサタンの兄弟です。また、モルモン教によれば、イエスは数百万の神々の一人です。

エホバの証人によれば、イエスは実際には御使いのかしらミカエルです。

偽の聖霊も存在します。エホバの証人によれば、聖霊は人格を持たない力です。モルモン教によれば、聖霊はイエスと同じく数百万の神々の一人です。

偽の福音もあります。エホバの証人とモルモン教によれば、救いは信仰と恵みだけではなく、私たちの良い行動に基づくものです。

もちろん、エホバの証人やモルモン教の人々は優しく誠実です。私たちよりも敬虔に見えるかもしれません。

しかし、彼らは別のイエス、異なる霊、異なる福音を伝えているため、自身が偽教師や偽のクリスチャンであることを証明してしまっています。

それでも、彼らの言葉は魅力的に聞こえるため、多くの人々が惑わされてしまいます。

誤解しないでください。彼らは意図的に人々を欺こうとしているわけではありません。むしろ、彼ら自身が欺かれてしまったのです。

けれども、私たちは惑わされないように、「私はイエス様を信じる。福音を信じる」と主張する人の言葉を吟味せずに受け入れてはいけません。

むしろ、私たちは聖書によって彼らの教えを吟味すべきです。なぜなら、聖書こそが真理の基盤だからです。

子供のように考えず、軽々しく騙されないようにしましょう。むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ただし、すべてを吟味し、良いものはしっかり保ちなさい。テサロニケ第一5:21

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コリント人への手紙第二

自分自身と周りの人々をどのように判断するか

この箇所では、パウロは依然として自分を軽蔑するコリントの人々に向き合っています。

彼らはパウロを見て、その外見から判断しました。どうやら、パウロはそれほど容姿端麗ではなく、話し方も特に印象的ではなかったようです。

そのため、あるコリントの人々はパウロについてこう言いました。

「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ってみると弱々しく、話は大したことはない。」(コリント人への手紙第二10:10)

しかし、パウロは彼らに言いました。「あなたたちはうわべのことだけを見ています。」(7)

パウロは、クリスチャンとして、またキリストのしもべとして、立派な人物でした。 それでも、彼らはパウロの外見や話し方にばかり注目しすぎて、その本質を悟ることができなかったのです。 その結果、彼らはパウロとその弱さを軽蔑したのです。

こうして、パウロは彼らに警告を与えました。

そのような人は承知していなさい。私たちは、離れて書く手紙のことばどおりの者として、そちらに行ってもふるまいます。(11)

要するに、「私たちはただ言葉を並べる者ではありません。私たちは自分の言葉に従って行動します。私たちがコリントに行けば、あなたたちがまだ悔い改めていないことを知るでしょう。」

私たちは人を見るとき、外見で判断してはなりません。なぜなら、彼らはその見た目以上に優れた人であるかもしれないからです。そして、神様の力によって、私たちの予想を超えて彼らはさまざまな奉仕をすることができるでしょう。

しかし、もし私たちが彼らの外見にのみ注目し、彼らの弱さを軽蔑するなら、その人の本質を見損なうことになります。

さらに、私たちは神様の似姿として造られた人を軽んじてしまうことになります。そして、神様の目的のために造られた人を軽蔑してしまうことにもなります。神様はそのような態度を軽くは見られません。

また、私たちは自分自身をどのように評価すべきかを考える必要があります。

パウロは自分を批判する者についてこう言いました。

彼らは自分たちの間で自分自身を量ったり、互いを比較し合ったりしていますが、愚かなことです。(12)

要するに、自分自身を周りの人々と比べたり、評価したりするのは愚かなことです。なぜでしょうか。それは、私たちが人間的な基準ではなく、神様の基準によって測られるからです。

もし私たちが人間的な基準で自分自身を測るなら、神様が定めた的を大きく外してしまうでしょう。

さらに、当然のことですが、他人の業績を自分の手柄にしてはいけません。自分が成し遂げたことを誇りすぎるのはよくないですが、他人の業績を自分の手柄にするのはなおさら悪いことです。

パウロはそのようなことを一度も行いませんでした。(13−16)

そして、パウロは私たちが誇るべきことについて語ります。

誇る者は主を誇れ。(17)

パウロが意味したものとは何でしょうか。主は預言者エレミヤを通して、次のように語られました。

誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であり(ます)。(エレミヤ書9:24)

要するに、私たちは自分自身や自分の業績に焦点を当ててはいけません。むしろ、神様に目を向け、神様をもっと深く知ることに努めるべきです。

神様を本当に知っている人には誇るべきことがあります。なぜなら、彼らは真に価値あるものに焦点を当てているからです。彼らは周りの人々を喜ばせることを目的とするのではなく、神様を喜ばせることを最優先にしています。

そのような考え方こそが真の知恵です。

だからこそ、パウロはこう言いました。

自分自身を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ本物です。(18)

あなたはどうでしょうか。周りの人々をどのように判断していますか。彼らの外見だけで判断しているでしょうか。

また、自分自身をどのように評価していますか。周りの人々と比べているでしょうか。それとも、人間的な基準ではなく、神様の基準で測っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

要塞を打ち倒す力

私たちはこの世を見れば見るほど、サタンが自らの要塞を私たちの文化の中に築いていることに気づきます。

アメリカでは過去10〜20年の間に道徳観が悪化しつつあります。また、日本では、サタンの強い霊的な要塞の影響により、多くの人々が霊的な暗闇の中で生きています。

あるクリスチャンは、それを見て失望し、あきらめたいと思います。

また、別のクリスチャンは、サタンが私たちの文化の中で行ったことに怒りを感じます。そして、この世の人々のように、彼らは怒りと憎しみを抱き、暴力的な態度で撃退しようとします。

しかし、私たちはそのような戦い方をしてはいけません。それは、サタンの要塞を正しく打ち倒す方法ではありません。

パウロはコリントの教会で、さまざまな要塞に直面しました。偽教師によって築かれた要塞、分裂の要塞、そして神様とパウロに対する反抗的な態度という要塞がありました。

では、パウロはどのように反応したでしょうか。

パウロは柔和さと優しさをもって対応しました。彼に反対する人々を打ち負かそうとはせず、むしろ、柔和な心を持ち続けました。

もちろん、パウロが強気になることもありました。だからこそ、彼はコリントの人々にこう言いました。「あなたがたが悔い改めないなら、私は強く振る舞い、大胆に行動します。」

しかし、それが彼の望みではありませんでした。

大胆に振る舞わなければならない時でさえ、パウロは人々を打ち倒そうとは思いませんでした。むしろ、彼らを建て上げたいと願っていたのです。

そして、パウロはサタンの要塞を攻撃する方法について語りました。彼は言いました。

私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。(コリント人への手紙第二10:3)

あるクリスチャンは「毒をもって毒を制す」という態度を取ることがあります。

また、社会の悪化を食い止めるために政治の手段を用いるべきだと考える人もいます。

誤解しないでください。クリスチャンとして、私たちは政治に関与すべきです。政治から手を引くべきではありません。しかし、政治を通じて人の心を変えられると考えるなら、それは誤りです。

クリスチャンの価値観が社会に根付けば、状況は改善されるかもしれません。けれども、政治には人の心を変える力はありません。

もし長期的な変化を望むなら、個々のクリスチャンが周囲の人々と関わるべきです。また、神様が与えてくださった霊的な武器を用いなければなりません。

パウロはこう言いました。

私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。(4)

その武器は何でしょうか。基本的に、それは神の御言葉と祈りです。私たちは人々に神の御言葉を伝え、彼らのために祈るべきです。

御霊が私たちの内で、また私たちを通して働かれるとき、私たちは御言葉と祈りの持つ力によって人が変えられるのを目の当たりにします。

御霊を通して、

私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。(5)

最終的に、政治や議論によって人の心を変えることはできません。むしろ、神様こそが人の心を変えることのできる方です。

だから、私は二つの質問を投げかけます。

1.私たちは、サタンの要塞を打ち倒す戦いに参加しているでしょうか。

2.もしそうなら、どんな武器を持って戦っているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

人々が神様に栄光を帰すために

前回の記事でこのことに触れましたが、もう少し詳しく話したいと思います。つまり、神様の民の寛大さによって、彼らは神様に栄光を帰すのです。

パウロはこう書きました。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

なぜなら、この奉仕の務めは、聖徒たちの欠乏を満たすだけではなく、神に対する多くの感謝を通してますます豊かになるからです。

この務めが証拠となって、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、自分たちや、すべての人に惜しみなく与えていることを理解して、神をあがめるでしょう。

そして彼らは、あなたがたのために祈るとき、あなたがたに与えられた、神のこの上なく豊かな恵みのゆえに、あなたがたを慕うようになります。(コリント人への手紙第二9:11-14)

この箇所の重要なテーマの一つは、私たちの寛大さによって、周りの人々が神様に感謝することです。

彼らは、自分の必要が満たされたからだけでなく、神様が私たちを通して働いておられるのを見るゆえに、神様に感謝します。彼らは、私たちの人生に溢れるこの上なく豊かな恵みを目の当たりにし、その恵みが彼らの人生にも広がっていくのを見ます。

残念なことに、多くの人々はクリスチャンを見ると、偽善者のように感じることがあります。また、愛に欠ける人や冷淡な人として映ることもあります。

しかし、イエス様の恵みに触れた寛大なクリスチャンを見ると、彼らは天の父を垣間見るのです。その天の父は、「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださいます。」(マタイ5:45)

だからこそ、私たちの姿を見ると、彼らは神様に栄光を帰し、神様に近づくのです。

イエス様はこう言いました。

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。(マタイ5:16)

光を輝かせる最も良い方法の一つは、人々に惜しみなく与えることです。

私たちがそうすると、ノンクリスチャンだけでなく、クリスチャンも励まされます。

彼らは、神様が決して自分たちを見捨てず、変わらぬ愛を注いでくださることを知るのです。そして、他のクリスチャンが自分の信仰によって生きる姿を見ることで、彼らもまた、自分の信仰によって生きるように励まされます。

そして、パウロのように、彼らは言葉に尽くせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(15)

その賜物によって、人々の心は変えられ、神様から与えられた愛を周りの人々に惜しみなく分かち合い始めます。

あなたはどうでしょうか。あなたの寛大さによって、人々は神様に栄光を帰しているでしょうか。彼らはあなたの人生を通して神様を見て、感謝しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みが溢れている人生

「恵みが溢れている人生」という記事のタイトルを読んだとき、あなたは何を思い浮かべたでしょうか。

神様から与えられた恵みを考えたでしょうか。もちろん、この記事ではそのことについても書きます。しかし、それだけではありません。

パウロはこう書きました。

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。

あなたがたが、いつもすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれるようになるためです。(コリント人への手紙第二9:8)

私はこの箇所が大好きです。パウロによれば、神様は私たちに溢れるほどの恵みを与え、私たちの必要を満たすことができます。

しかし、その恵みを豊かに与える目的は何でしょうか。それは、私たちがすべての良いわざに満ち溢れるためです。つまり、私たちは受けた恵みによって、周りの人々にも豊かに恵みを与えることができるのです。

そして、パウロは詩篇112篇を引用します。

「彼は貧しい人々に惜しみなく分け与えた。彼の義は永遠にとどまる」と書かれているようにです。(9)

どういうわけか分かりませんが、以前にこの言葉を読んだとき、パウロがイエス様について語っているのだと思いました。もしかすると、その箇所でエペソ書4:8を連想したのかもしれません。

けれども、実際には、その詩人は義人の寛大さについて語っています。義人は主に信頼しているので、未来を恐れません。そのため、惜しみなく貧しい人を助け、良いわざに満ち溢れています。

そして、パウロは続けてこう言います。

種蒔く人に種と食べるためのパンを与えてくださる方は、あなたがたの種を備え、増やし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。

あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、すべてを惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。(10-11)

要するに、私たちは神様が私たちの必要を満たしてくださることを確信できます。そして、私たちが周りの人々に惜しみなく与えるようになるほど、神様は私たちの財源をさらに増し加えてくださるのです。

しかし、私たちは自分の経済について本当に神様に信頼しているでしょうか。私はそのことをまだ学んでいる途中です。

私は詩篇112篇に描かれる義人のようになりたいです。私の人生に神様の恵みが溢れるように祈ります。けれども、その恵みを自分のためだけに持ちたいわけではありません。

むしろ、その恵みに溢れ、周りの人々に触れて祝福したいのです。そして、私の人生を通して、彼らが神様に栄光を帰すことを願います。

あなたはどうでしょうか。あなたの人生は恵みに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

献金の原則

この箇所では、私たちは二つの献金の法則を見ることができます。

パウロはこう言いました。

私が伝えたいことは、こうです。わずかだけ蒔く者はわずかだけ刈り入れ、豊かに蒔く者は豊かに刈り入れます。(コリント人への手紙第二9:6)

もちろん、これは人生のあらゆる事柄に関わる大切な原則です。

例えば、結婚にわずかしか蒔かなければ、刈り入れるものもわずかになります。

つまり、結婚に時間や努力を惜しめば、その結婚から得られるものはほんのわずかであり、やがて枯れ果ててしまうかもしれません。けれども、結婚に豊かに蒔けば、大きな祝福を刈り入れることができます。

子育てにおいても、この原則は非常に重要です。もし、子供に対してわずかしか種を蒔かなければ、彼らが成長しても、あなたとの親しい関係をあまり求めないかもしれません。けれども、子供に豊かに蒔けば、成長した後も親しい関係を築くことができるでしょう。

とはいえ、この箇所でパウロが語っているのは献金についてです。多くのクリスチャンは、「十一献金は新約聖書の教えではないのだから、どうして献げるべきなのだろうか」と考えます。

しかし、教会にわずかしか蒔かなければ、その結果はどうなるでしょうか。

牧師は自分の家族を支えるために、アルバイトをしなければならなくなるかもしれません。そのため、教会の人々に仕える時間は大幅に減ってしまうでしょう。

また、教会は地域の人々に働きかけるための十分な財源を持てないかもしれません。さらに、あなたの家族に仕えるための資源も不足するでしょう。

けれども、あなたが豊かに教会に蒔けば、教会はあなたや家族、そして地域の人々にとって大きな祝福となるでしょう。

もしあなたが「自分の牧師や教会は十分に機能していない」と嘆いているなら、自分自身に問いかけてみてください。「私は豊かに教会に蒔いているだろうか。」

そして、パウロは続けてこう言います。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。(7)

献金するとき、「献金しなくてはならない」という義務感を持つべきではありません。また、強いられるような気持ちで献金するのも正しくありません。

むしろ、喜びに満ちた心を持ち、惜しみなく献金するべきです。

「神様、あなたが多くの恵みを与えてくださり、ありがとうございます。あなたはイエス様を送ってくださいました。それは本当に素晴らしい賜物です。ですから、この献金を通して、私の感謝を表したいのです。」

このような心を持って献金することが大切です。

そのような心を持てば、献金の額が多くても少なくても、神様は喜んで受け入れてくださいます。

ルカの福音書21:1-3では、やもめの献金はほんのわずかな額でした。しかし、彼女は心から献げたため、イエス様はその献金を金持ちの多額の献金よりも喜ばれました。

あなたはどうでしょうか。どのような心で献金を捧げていますか。

あなたはわずかに蒔いているでしょうか。それとも、豊かに蒔いているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

私たちが周りの人々に与える影響

私たちは皆、家庭でも教会でも職場でも、周りの人々に影響を与えています。

もしかすると、自分がロールモデルになろうとは思わなかったかもしれません。しかし、実際にはそうした立場を持っていることもあります。もしそうなら、私たちはその役割を果たす責任を、周りの人々に対して、そして神様に対して負っています。

コリントの人々は、エルサレムの人々の苦しみについて聞いたとき、助けたいと願い、その思いをパウロに伝えました。パウロはその知らせを聞いて喜び、さらにマケドニアの人々にそのニュースを伝えました。

そして、マケドニアの人々がそれを聞くと、彼らも助けたいと願いました。こうして、あるマケドニアの人々がパウロとともに、コリントを経由してエルサレムへ行くことになりました。

しかし、パウロの心にはある懸念が浮かびました。「コリントの人々は、もうその献金を整えているだろうか。まさか、まだしていないのだろうか。」

そこで、パウロはこの手紙を書き、彼らが約束通りに献金を整えるよう促しました。そして、彼は彼らにこう書きました。

そうでないと、もしマケドニアの人々が私と一緒に行って、準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろんですが、私たちも、このことを確信していただけに、恥をかくことになるでしょう。(コリント人への手紙第二9:4)

コリントの人々は予想もしませんでしたが、彼らの熱心によって、マケドニアの人々も献金するように鼓舞されました。もし霊的な先輩であるコリントの人々が献金を準備していなかったとしたら、マケドニアの人々は非常に落胆したことでしょう。

もちろん、私たちは完全な存在ではありません。誰もが失敗することがあります。クリスチャンは、何よりもイエス様ご自身を見習うべきです。

それでも、そうしないクリスチャンもいます。イエス様ご自身も、そのことを認めました。だから、彼はこう言いました。

私を信じるこの小さい者たちの一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首にかけられて、海の深みに沈められる方が良いのです。

つまずきを与えるこの世はわざわいです。つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。(マタイ18:6-7)

だからこそ、注意を払いましょう。私たちの行動は、私たちを見上げる人々に影響を与えることを心に留めましょう。

神様の恵みによって、私たちの模範を通して、人々が失望し、神様から離れることがないように。むしろ、私たちの模範によって、彼らが神様に従うように励まされますように。

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コリント人への手紙第二

イエス様の御名を輝かせている?

この箇所で、パウロはエルサレムの貧しい人々のための献金を集める手順について語ります。なぜなら、彼はコリントの人々に、その過程が公正であることを安心してもらいたかったからです。

そこで、パウロは献金を預かる担当者たちについて説明します。

一人はテトスでした。もう一人は、福音を宣べ伝える働きによって知られていました。そして、もう一人は、主への奉仕に熱心なことで知られていました。

彼らについて、パウロはこう語りました。

テトスについて言えば、彼は私の仲間であり、あなたがたのために働く同労者です。

私たちの兄弟たちについて言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光です。(コリント人への手紙第二8:23)

それは素晴らしい誉め言葉です。その三人はキリストの栄光です。

それはどういう意味でしょうか。彼らは、自分の人生を通してイエス様の御名に栄光をもたらしました。

イエス様への熱心さによって、彼らはイエス様の御名を栄光で満たしました。また、福音を宣べ伝える働きを通して、彼らはイエス様の御名に栄光をもたらしました。さらに、周りの人々への愛と憐れみによって、彼らはイエス様の御名を輝かせました。

この言葉を読むと、私は自分自身に問いかけます。私はキリストの栄光となっているだろうか。

私の言葉と行動を通して、イエス様に栄光をもたらしているだろうか。イエス様への熱心さを持っているだろうか。周りの人々にイエス様の言葉を伝えているだろうか。彼らに対する神様の愛と憐れみは私の心に溢れているだろうか。

私はそう願います。もちろん、私は完全な人間ではありません。しかし、イエス様の御名を汚したくありません。

あなたはどうでしょうか。あなたはイエス様の栄光となっているでしょうか。あなたの言葉と行動を通して、イエス様の御名を輝かせているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みの模範

私たちは本当に神様の恵みを理解できているでしょうか。その恵みを深く理解するなら、私たちの態度はどれほど変わるでしょうか。

自分のお金をささげること、自分の時間をささげること、自分の人生をささげることについて、私たちの考え方はどのように変わるでしょうか。

パウロはコリントの人々にこう語りました。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。

すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(コリント人への手紙第二8:9)

恵みとは何でしょうか。それは、神様の祝福に値しない者に祝福を与えることです。イエス様は恵み深い方であり、その恵みに値しない私たちを祝福してくださいました。

イエス様が何をしてくださったのか、考えてみてください。

イエス様は天国において富んでおられました。しかし、「富んでおられる」とは、お金や金銀をたくさん持っていたという意味ではありません。天国では、そうしたものに価値はありません。けれども、イエス様は天の父の栄光を持ち、天使たちから礼拝されていました。

イエス様は天の父の王座の右に座しており、何一つ欠けることがありませんでした。さらに、イエス様はすべてを治め、イエス様にあって万物は成り立っていました。(コロサイ書1:15-18)

それでもなお、イエス様はご自身の栄光を捨て、天国を離れ、人間としてこの世に来られました。

イエス様は王としてではなく、金持ちとしてでもなく、むしろ貧しい大工として来られました。そして、ご自身の奉仕を始められた時、イエス様には枕する所すらありませんでした。(ルカ9:58)

そして、ご自身の人生の終わりには、イエス様は礼拝されるのではなく、むしろ侮辱されました。王座には座らず、十字架につけられました。栄光をもって治めるのではなく、恥を受けて十字架につけられました。

なぜでしょうか。

それは、私たちが豊かにされるためです。イエス様の十字架の御業によって、私たちの罪の負債は支払われました。そのため、私たちはいつか御国でイエス様と共に治めることになります。(ローマ書8:17)

イエス様は惜しみなく恵みを与えてくださいました。

だから、私はもう一度尋ねます。

あなたは本当にその恵みを理解しているでしょうか。

その真理を実感しているでしょうか。もしそうなら、私たちの人生に大きな影響を与えるはずです。

イエス様が惜しみなく私たちを恵まれたように、私たちも周りの人々に惜しみなく恵みを与え始めるでしょう。

正直に言うと、私もこの真理をもっと深く実感する必要があります。

あなたはどうでしょうか。イエス様の恵みを理解しているでしょうか。その恵みは、あなたから周りの人々へと溢れ出しているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

恵みのわざに満ち溢れる

この箇所で、パウロはコリントの人々にこう語ります。

あなたがたはすべてのことに、すなわち、信仰にも、ことばにも、知識にも、あらゆる熱心にも、私たちからあなたがたが受けた愛にもあふれています。

そのように、この恵みのわざにもあふれるようになってください。(コリント人への手紙第二8:7)

コリントの人々は、霊的な賜物や熱心さ、愛の豊かさで知られていました。

けれども、パウロはこう言います。「信仰や言葉、知識、熱心さだけではなく、恵みのわざに溢れなさい。つまり、人々の必要に応じて惜しみなく与える恵みのわざに満ちなさい。」

多くのクリスチャンは、信仰に溢れたい、キリストのために福音を伝えたい、イエス様についての知識を深めたい、熱心と愛に満ちたいと願います。

しかし、私たちは人々の必要に備える恵みのわざに溢れたいと本当に思っているでしょうか。それを願う人は少ないかもしれません。

神様は私たちにそれを望まれます。神様は、私たちが人々に与え、彼らに寄り添うことを求められます。

それこそがパウロの主な意図です。「この恵みのわざ」とは、エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちに与えることを意味していました。

しかし、神様は私たちがすべての恵みのわざに満ち溢れることを望まれます。

私たちが周りの人々に恵みの言葉を伝えることを望まれます。私たちが親切なわざを行うことを望まれます。私たちが人を許すことを望まれます。また、私たちが苦しんでいる人を憐れむことを望まれます。

私たちは恵みに満ちた人であるべきです。なぜなら、神様は恵みに満ちた方だからです。神様の子供として、私たちは天の父にならうべきです。

あなたはどうでしょうか。あなたは恵みに満ちた人でしょうか。あなたは恵みのわざに溢れているでしょうか。

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コリント人への手紙第二

始めたことを最後まで成し遂げる

コリント人への手紙第二8:6-12は真理に富んでおり、私はこの箇所についてさらにいくつかの記事を書こうと思います。

パウロはこの箇所を、始めたように終えます。彼は基本的にこう言っています。

「あなたがたが始めたことを、しっかりと成し遂げなさい。」

コリントの人々は、エルサレムにいる貧しいクリスチャンたちのことを聞いた途端、「私たちは彼らを助けたい」と言いました。その模範を見たマケドニアのクリスチャンたちも、助けたいと思うようになりました。

そこで、パウロはコリントの人々に言いました。

「あなたがたが助けたいと思うのは素晴らしいことです。しかし、あなたがたは始めたことを成し遂げなさい。あなたの熱意を忘れず、良い計画を無駄にしないようにしなさい。

自分の約束を守り、献金を集めなさい。そうすれば、私たちが着いた頃には、その献金はすでに整っているはずです。

もしあなたが良い心を持っていれば、献金の金額はそれほど重要ではありません。なぜなら、神様が望まれるのは、あなたの心だからです。」

では、あなたはどうでしょうか。あなたは自分が始めたことを最後まで成し遂げるでしょうか。人々を祝福する計画を完成させるでしょうか。

あるいは、あなたの熱意が冷めてしまい、その計画を忘れてしまうでしょうか。

私たちはそうならないように、むしろ、自分の約束を守り、神様が与えてくださった良い計画を成し遂げましょう。

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喜んで与える心

気前のいい心。人に何かを与えること。

正直に言うと、私はまだそのような心を持てるよう努めているところです。もしかしたら、私が末っ子だからかもしれません。あるいは、私の罪深い心のせいかもしれません。どうしてか分かりませんが、人に与えることは私にとって苦手なのです。

それでも、私はそのような心を持つべきだと思います。なぜなら、すべてのクリスチャンがそのような心を持つべきだからです。

マケドニアの人々は、そのような気質を持っていました。パウロによれば、彼らは激しい試練の中にあっても、また貧しい状況にあっても、エルサレムで苦しんでいるクリスチャンたちのために献金させてもらうことを願いました。

おそらく、パウロは彼らにこう言ったでしょう。「大丈夫です。あなたたちの経済も厳しい状況ですし、他の教会の人々も献金しています。それで十分だと思います。」

それでも、マケドニアの人々は「聖徒たちを支える奉仕の恵み」に参加させてもらうことを願いました。彼らはその奉仕を恵みと考えました。

私たちが苦しんでいるとき、自分自身のことに焦点を当てるのは簡単です。試練の中で、ただ自分のことだけを考え、どうすれば困難を乗り越えられるかと思い悩むものです。けれども、マケドニアの人々はそのように考えませんでした。

むしろ、彼らについて、パウロはこう言いました。

そして、私たちの期待以上に、神のみこころにしたがって、まず自分自身を主に献げ、私たちにも委ねてくれました。(コリント人への手紙第二8:5)

それが、ささげることの本質です。まず、私たちは自分自身を神様に献げ、そして他の人々のためにも心を委ねることです。

イエス様はこの原則を次のように教えました。

あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(マタイ22:37)

また、

あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。(マタイ22:39)

だから、もしあなたがケチな態度を持っているなら、自分自身にこう問いかけるべきです。

「私は、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、主を愛しているだろうか。私は隣人を自分自身のように愛しているだろうか。もしかしたら、神様よりも、また隣人よりも、お金を愛しているのではないだろうか。」

もう一つの大切な問いかけは次のようなものです。

「私は、自分のことしか見ることができないほど、自分の問題に焦点を当てているのだろうか。それとも、マケドニアの人々のように、自分の問題だけでなく、他の人々の必要も見ることができるだろうか。」

あなたの心を見つめたとき、何が見えるでしょうか。

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二種類の悲しみ

サタンの名前は「責める方」という意味です。その名の通り、サタンはいつも人を責めます。彼は私たちの罪を指摘し、私たちを惨めな者と呼びます。

実際、サタンの咎めの中には真実が含まれていることもあります。彼は私たちにこう言います。

「お前はだめだ。自分の罪を見てみろ。お前は神様の前では何の価値もない。神様がどうしてお前のような者を愛せるだろうか。」

そして、サタンは罪悪感の重荷で私たちを押し潰そうとします。

しかし、もしあなたが神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。

もちろん、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちが悲しむことを望まれます。けれども、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとはまったく異なるものです。パウロはこう書きました。

あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。

あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。

あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:8-9)

パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を抱きました。その言葉により、彼らは悲しみました。しかし、その悲しみは一時的なものでした。

パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。彼はその訓戒によって、彼らが長期的な害を受けることを望んだのではなく、むしろ悔い改めを通じて、彼らと神様との関係、また彼自身との関係が修復されることを願っていました。

だからこそ、パウロは神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いを明確に区別します。

神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)

世の悲しみを持つ人々は、一生後悔し続け、罪の赦しへの希望を失い、さらには将来への希望もなくしてしまいます。そのため、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押し潰します。

しかし、その反面、神のみこころに添った悲しみは悔い改めへと導きます。その人々が知っているのは、どれほど大きな罪を犯していても、神様によって赦されているということです。

だから、彼らは悲しみと後悔を手放し、イエス様の手を取り、神様が整えた未来へと歩み出します。

それはどのような未来でしょうか。それは希望と命に満ち溢れた未来です。

あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、あなたの悲しみは世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、罪悪感に押し潰されてはいませんか。

それとも、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとへと導いているでしょうか。悔い改めと命へと導いているでしょうか。

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真の愛

私たちは6ー7章を読むと、コリント人たちに対するパウロの愛をもちろん見ることができます。しかし、その愛は、私たちに対する神様の愛をも反映しています。

パウロはコリント人たちに心から願いました。

私たちに対して心を開いてください。(コリント人への手紙第二:7:2)

あるコリント人たちは自分の心をパウロに閉ざしていました。だから、パウロは彼らに「心を開いてください。」と願いました。

同じように、神様も私たちがご自身に心を開くことを望んでおられます。私たちが不信者たちと不釣り合いなくびきをともにせず、神様との親しい関係を持ち、一緒に歩むことを望んでおられます。

なぜ神様はそれを望まれるのでしょうか。それは、私たちが神様の息子と娘だからです。

パウロはコリント人たちに対して、深い愛を持っていました。彼は自分自身を彼らの霊的な父と呼びました。(第一コリント4:15)

だから、霊的な父として、パウロは天の父が私たちに示されるような愛をコリント人たちに与えました。言い換えると、彼は彼らに真の愛を示しました。

では、真の愛とはどのようなものでしょうか。

パウロはこう説明します。

私たちはだれにも不正をしたことがなく、だれも滅ぼしたことがなく、だれからもだまし取ったことがありません。(コリント人への手紙第二8:2b)

すべてのクリスチャンのリーダーたちが、そのように言えるならどんなに良いことでしょう。

つまり、リーダーたちが故意に人を傷つけることがなく、彼らの教えが人々を聖い人生へと導くことです。また、彼らが人々の弱さにつけ込むこともなく、金銭をだまし取ることもないことです。

パウロは、それを自信を持って主張することができました。

そして、パウロは続けてこう言いました。

前にも言ったように、あなたがたは、私たちとともに死に、ともに生きるために、私たちの心のうちにあるのです。(3b)

真の愛は、どんな状況でも相手とともに立ちます。たとえ死に直面するときも、真の愛は揺るぐことなく忠実です。

そしてパウロはこう言いました。

私には、あなたがたに対する大きな確信があり、あなたがたについて大きな誇りがあります。(4)

愛は、人々を信じます。コリント人たちとの関係に問題があっても、パウロは彼らのことをテトスに誇りました。彼はテトスにこう言ったようです。

「私はコリント人たちを信じます。彼らが本当に神様の民であることを信じます。だから、たとえ私たちの言葉が厳しく、聞きにくいものであっても、最終的に彼らはその言葉を受け入れ、悔い改めることを信じます。」(14)

だからこそ、パウロは彼らに愛を示し、彼らを訓戒しました。真の愛は必要があれば人を訓戒するものだからです。

けれども、人を訓戒することを避ける人もいます。なぜなら、それが愛のない行為に見えるのではないかと心配するからです。

また、愛を持たずに真理を伝える人もいます。正直さよりも、ただ残酷な言葉を投げかけることに興味があるのです。

しかし、それはパウロの意図ではありませんでした。彼の望みは、コリント人たちが悔い改めることでした。決して彼らを傷つけることを望んでいたわけではなく、むしろ彼らが霊的に成長することを願っていたのです。(9-10)

結局、パウロの願いは叶いました。

時に、私たちが人を訓戒する理由は、相手の心を見抜くことにあります。パウロはこう言いました。

「あなたを訓戒した時、それは単に不正を行った人のためでも、被害者である私のためでもなかったのです。むしろ、あなたの心を見抜きたいと思いました。そして、あなたの悔い改めによって、あなたの心にあるものが明らかになりました。」(11-12)

けれども、それはパウロが彼らを信じていなかったために、試そうとしたということではありません。むしろ、彼は彼らを信じていたので、必ず悔い改めることを信じていました。

それが愛です。パウロのコリント人に対する愛とは、そのようなものでした。そして、神様の私たちに対する愛も、同じようなものです。

だからこそ、私たちもそのような愛を持つべきです。

あなたは、そのような愛を持っているでしょうか。

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くびきを外すこと

この箇所について、最後に二つのことを言いたいと思います。

一つ目は、あなたがノン・クリスチャンと結婚しているなら、私は彼らと離婚しなくてはいけないとは言っていないことです。それでも、あなたが神様の言葉に反してその人と結婚したなら、その反抗的な態度のために神様の赦しを願うべきです。

でも、悔い改めた後、神様はその結婚であなたを用いることが出来ます。コリント人への手紙第一でパウロは言いましたが、もし、配偶者がまだあなたと一緒に住み続けたいと思うなら、そうするべきです。その理由は?

なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。

そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。(第一コリント7:14)

その言葉を誤解しないでください。神様は彼らの救いを約束しているわけではありません。でも、その結婚が継続している間、聖霊様はあなたを通して働いて、配偶者と子供たちに触れることができます。もちろん、その場合、彼らが救われる可能性はより高いものです。

簡単に言うと、あなたは彼らに影響を与えることができます。でも、最初に、自分の神様との関係に注意するべきです。

もし神様との関係があなたの罪によって壊れたら、神様はあなたを用いることが出来ません。もしあなたが悔い改めていない罪を持っていると、神様はあなたを通してあまり働くことができません。

でも、あなたはノン・クリスチャンと結婚したことを後悔し始まめも、あきらめないでください。神様はあなたを通して、その状態を変えることが出来ます。

以前の記事で私は言いましたが、不信者とつり合わないくびきをともにするとは、結婚関係に限りません。

もしかしたら、ノン・クリスチャンの友達はあまりにもあなたに影響を与えているかもしれません。

あなたが大人なのに、あなたのご両親たちはあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

また、あなたの彼氏や、彼女はあなたにあまりにも影響を与えているかもしれません。

そして、その影響によって、あなたの神様との関係はうまくいっていないかもしれません。

どうすれば良いでしょうか。控え目に言っても、それはかなり難しい状態です。でも、柔和な態度をもって行動するべきです。

最初に、彼らに対するあなたの愛をもう一度言い表すべきです。でも、彼らが行っている道があなたのと違って、あなたは神様の道を行かなくてはならないと伝えてください。

そして、その関係によって、あなたは彼らと絶交するか、彼らがあなたに影響を与えられないほどに、距離を保つべきです。

その距離は物質的な距離かもしれない。例えば、あなたは実家を去って、自分のアパートを借りたりしないといけないかもしれません。

または、あなたはただその人とあまり時間を過ごさないことです。

あなたの決断を理解する人もいます。ある人は理解してくれません。でも、彼らがあなたに影響を与えている限り、あなたはちゃんと神様に従うことが出来ません。だから、そのくびきを外してください。イエス様に従い始めてください。

そうすれば、神様が約束した祝福を知ります。

わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。

──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。(16-18)

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不信者との不釣り合いなくびき(3)

次の箇所に進む前に、この箇所に関して多くの人々が教えている応用について触れておきたいと思います。それは、ノン・クリスチャンとの交際や結婚についてです。

ノン・クリスチャンとデートしてはいけないと教える人もいます。

私はそこまで言い切りませんが、多くの場合、ノン・クリスチャンと交際することは良い選択ではなく、罪へと導かれる可能性が高いのです。

クリスチャンがノン・クリスチャンと交際し、良い結果を得たケースもあります。しかし、大多数の場合、その結果は望ましくないものでした。

ノン・クリスチャンと交際するとき、最も大切な問いかけは、「誰が誰に影響を与えているのか」ということです。

あなたの影響によって、その人は神様に近づいているでしょうか。あるいは、相手の影響によって、あなたは徐々にイエス様から離れてしまっているでしょうか。

あなたの影響によって、相手は神様をもっと知りたいと願っているでしょうか。もしかすると、相手の影響によって、あなたは自分の純潔を失ってしまっているのではないでしょうか。

相手とデートするために、礼拝を欠席することがあるでしょうか。

相手と過ごす時間が多すぎて、ほとんど聖書を読まず、祈ることも少なくなっているでしょうか。

あなたは相手との肉体的な誘惑に負けてしまっているでしょうか。

もし「はい」と答えるなら、その人との関係を断つことが最善かもしれません。

それは厳しい勧告でしょう。しかし、なぜクリスチャンにとって、その忠告を受け入れることが難しいのでしょうか。

それは、その関係の問題が、単なる知識の問題ではなく、深い感情的な要素を含んでいるからです。

結婚についてですが、私たちは異性と肉体的に一つとなるように造られただけでなく、感情的にも深く結びつくように造られています。

相手と付き合うことで、その感情的な結びつきが始まります。

「その人が好き!その人も私を好き!」

恋人がいる人は皆、その幸せを知っています。そして、その関係が続くにつれて、その感情はますます強くなります。相手への強い感情を持ちながらも、自分の価値観と信仰を守ることはできるでしょうか。それは非常に難しいことです。

恋人からのプレッシャーに直面したとき、自分の価値観と信仰を貫くことができるクリスチャンは多くありません。

そして、たとえ信仰を強く持っていたとしても、相手との関係を断たなければならないとき、必ず失恋の痛みを経験することになるでしょう。

パウロは本来別の状況について語っていましたが、その言葉をノン・クリスチャンとの交際に適用して考えてみたいと思います。

「ノン・クリスチャンと交際する人々、また、ノン・クリスチャンと結婚する人々は、苦難を身に招くでしょう。私はあなたがたを、そのような目にあわせたくないのです。」(第一コリント7:28)

相手がクリスチャンになる可能性はあるでしょうか。もちろん、その可能性はあります。

けれども、あなたのために命を捧げられたイエス様に対して不忠実になる危険性は非常に高いのです。残念なことですが、私はそうした事例を何度も見てきました。

クリスチャンの女性にとって、ノン・クリスチャンとの交際はさらに難しいものです。聖書によれば、結婚においては男性が導くべき存在とされています。そのため、交際中のカップルも、そのような関係性を育むことが望ましいでしょう。

しかし、クリスチャンの女性がノン・クリスチャンの男性の導きに従うこと、とりわけ霊的な導きに従うことは、不信者とつり合わないくびきをともにすることにつながります。

その一方で、もし女性が彼の導きに従わなければ、その関係が不自然に感じられるかもしれません。なぜなら、神様の御計画において、男性が導く役割を担うからです。

それでもなお、クリスチャンの女性はノン・クリスチャンとの交際において、相手の霊的な導きには決して従うべきではありません。

そして、クリスチャンがノン・クリスチャンと結婚することは、神様の命令に反する行為です。不信者とつり合わないくびきをともにすることになるからです。

そのため、ノン・クリスチャンとの交際を考える際には、慎重である必要があります。その関係が深まるにつれ、相手への感情が強くなり、罪に陥る危険性が高くなるからです。

あなたはどうでしょうか。あなたは不信者とつり合わないくびきをともにしているでしょうか。

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不信者との不釣り合いなくびき(2)

前回の記事では、不信者とつり合

わないくびきをともにしないことの重要性について考えました。つまり、ノン・クリスチャンの影響によって清い人生を送ることができず、神様に忠実に仕えることが難しくなるなら、その人との関係において少し距離を取ることが必要かもしれません。

では、なぜそれが重要なのでしょうか。パウロはこう述べています。

不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。

正義と不法に何の関わりがあるでしょう。光と闇に何の交わりがあるでしょう。キリストとベリアルに何の調和があるでしょう。

信者と不信者が何を共有しているでしょう。

神の宮と偶像に何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。(コリント人への手紙第二6:14-16a)

簡単に言えば、不信者と私たちの考え方や価値観には大きな隔たりがあり、その溝を橋で埋めることはできません。その理由は、私たちが異なる存在として属しているからです。

要するに、私たちは生ける神の宮であり、神様が私たちのうちに住んでおられます。

一方で、彼らは偶像の宮です。彼らは仏壇で拝まないかもしれません。それでも、心の王座から神様を追い出し、代わりに別のものをその王座に据えています。例えば、個人の幸せ、お金、持ち物などです。

そして、神様の考え方がその偶像の邪魔になると、彼らは神様を拒み、自分勝手に生きていきます。

もし彼らがそのように生きているのなら、どうして私たちが彼らの影響を受けるべきでしょうか。彼らはサタンの偽りを受け入れました。 「あなたがたが神のようになります。」(創世記3:5)

エバに言ったように、サタンは彼らにもこう語りかけます。

「あなたには神様の勧告など必要ありません。あなたは十分に賢いのです。幸せを得るために、神様のもとへ行く必要はありません。ほかのものによって、あなたは幸せになれるでしょう。神様のためではなく、自分のために生きたほうがよいのです。」

そして、サタンの偽りを信じると、彼らは実際にはサタンのために生きることになり、周囲の人々にもサタンに従うよう促してしまいます。

しかし、神様は私たちを自分の子供となるように呼ばれました。神様は、私たちがこの世の人々とは異なる存在となるように招いておられます。神様は、私たちが聖なる者となるように導いておられます。

だからこそ、パウロはこう語ります。

神がこう言われるとおりです。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らから離れよ。──主は言われる──汚れたものに触れてはならない。

そうすればわたしは、あなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる。──全能の主は言われる。」(6:16b-18)

そして、パウロはその話を次のようにまとめています。

愛する者たち。このような約束を与えられているのですから、肉と霊の一切の汚れから自分をきよめ、神を恐れつつ聖さを全うしようではありませんか。(コリント人への手紙第二7:1)

私たちは神様との素晴らしい関係を持つように招かれています。しかし、その関係を望むなら、私たちは罪から自分自身を清めるべきです。そのために、時には、私たちに悪い影響を与える人々から距離を保つ必要があるかもしれません。

あなたはどうでしょうか。神様への愛と敬意をもって、清い人生を歩んでいるでしょうか。あなたの人生は神様に仕えるものとなっているでしょうか。

もしかすると、この世に溶け込むあまり、知らず知らずのうちに周囲の人々の影響を受けてしまっているかもしれません。