サタンの名前は「責める方」という意味です。その名の通り、サタンはいつも人を責めます。彼は私たちの罪を指摘し、私たちを惨めな者と呼びます。
実際、サタンの咎めの中には真実が含まれていることもあります。彼は私たちにこう言います。
「お前はだめだ。自分の罪を見てみろ。お前は神様の前では何の価値もない。神様がどうしてお前のような者を愛せるだろうか。」
そして、サタンは罪悪感の重荷で私たちを押し潰そうとします。
しかし、もしあなたが神様の子供なら、その声が神様の声ではないことを理解してください。
もちろん、私たちが罪を犯したとき、神様は私たちが悲しむことを望まれます。けれども、神のみこころに添った悲しみは、世の悲しみとはまったく異なるものです。パウロはこう書きました。
あの手紙によってあなたがたを悲しませたとしても、私は後悔していません。
あの手紙が一時的にでも、あなたがたを悲しませたことを知っています。それで後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちから何の害も受けなかったのです。(コリント人への手紙第二7:8-9)
パウロの言葉によって、コリント人たちは罪悪感を抱きました。その言葉により、彼らは悲しみました。しかし、その悲しみは一時的なものでした。
パウロの意図は、彼らを滅ぼすことではありませんでした。彼はその訓戒によって、彼らが長期的な害を受けることを望んだのではなく、むしろ悔い改めを通じて、彼らと神様との関係、また彼自身との関係が修復されることを願っていました。
だからこそ、パウロは神のみこころに添った悲しみと世の悲しみの違いを明確に区別します。
神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。(10)
世の悲しみを持つ人々は、一生後悔し続け、罪の赦しへの希望を失い、さらには将来への希望もなくしてしまいます。そのため、彼らの悲しみと罪悪感は彼らを押し潰します。
しかし、その反面、神のみこころに添った悲しみは悔い改めへと導きます。その人々が知っているのは、どれほど大きな罪を犯していても、神様によって赦されているということです。
だから、彼らは悲しみと後悔を手放し、イエス様の手を取り、神様が整えた未来へと歩み出します。
それはどのような未来でしょうか。それは希望と命に満ち溢れた未来です。
あなたはどうでしょうか。罪を犯したとき、あなたの悲しみは世の悲しみでしょうか。その悲しみによって、罪悪感に押し潰されてはいませんか。
それとも、その悲しみは、あなたをイエス様のみもとへと導いているでしょうか。悔い改めと命へと導いているでしょうか。
