クリスチャンが認めるべきことの一つは、福音が多くの人にとって簡単に受け入れるものではないということです。残念なことに、そのため、人々が福音を受け入れやすくするために、クリスチャンはときどき福音のメッセージを薄めたり、遠回しに伝えたりすることがあります。
「イエス様は、ご自身が神様への唯一の道であると宣言されました。でも、少し誇張した表現だったのかもしれません。もしかすると、イエス様を信じていなくても、神様に受け入れられる敬虔な人々がいるのかもしれません。」
「神様の御心は、私たちがこの世で決して苦しまず、繁栄し、健康的な生活を送ることです。」
「聖書には、その行為は罪であると記されていますが、それは昔の律法によるものです。今の私たちはその律法の下にあるわけではありません。大切なのは、人をそのままの姿で受け入れることです。」
もちろん、私たちは恵みによって救われています。とはいえ、だからといって、悔い改めずに罪を犯し続けながらクリスチャンであると主張することはできません。
ガラテヤの人々の場合、恵みは薄められていました。一部のユダヤ人クリスチャンの考えでは、ガラテヤの人々は恵みだけによって救われるわけではありませんでした。むしろ、彼らは割礼を受ける必要があり、特定の食べ物を避けなければならず、その他の儀式的な律法にも従わなければなりませんでした。
では、なぜ彼らは福音を薄めたのでしょうか。おそらく、彼らはノンクリスチャンのユダヤ人がクリスチャンについてどう思うかを気にしていたからでしょう。
つまり、もしクリスチャンが恵みだけによる救いを宣べ伝えれば、ユダヤ人クリスチャンは「良いユダヤ人」とは見なされなくなるかもしれません。その結果、ユダヤ人の家族や友人に拒絶される可能性がありました。
こうした理由から、彼らはユダヤ人にとって受け入れやすい福音を採用したのです。
今もなお、同じようなことをするクリスチャンがいます。周囲の人々に福音をより受け入れやすくするために、福音のメッセージを薄めてしまうのです。
けれども、パウロはこう言いました。
今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)
要するに、「福音を宣べ伝えるとき、私は周囲の人々が福音に同意するかどうかを気にしません。彼らを喜ばせたいとは思いません。むしろ、私は神様を喜ばせたいのです。」
だからこそ、パウロは戦い、福音の単純さと純粋さを守ろうとしました。そのため、ペテロが福音を曖昧にしたとき、パウロは彼に対して異議を唱えました。(ガラテヤ書2:11-14)
あなたはどうでしょうか。福音を薄めてはいないでしょうか。それとも、福音を正直に伝えているでしょうか。
私たちが周囲の人々の意見を気にし続ける限り、神様を喜ばせることはできません。そして、薄められた福音を伝えるならば、私たちは神様を喜ばせることができないのです。
あなたはどんな福音を宣べ伝えているでしょうか。
