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ガラテヤ人への手紙

罪に仕える者なのか

ガラテヤ人への手紙2:15-18

ある人たち、特にカルトに属する人々がしばしば主張するのは、クリスチャンが律法の従順による福音ではなく、恵みによる福音を伝えるため、結果的にクリスチャンがあえて罪を犯すように促されるということです。

彼らの議論は次のようなものです。「律法の従順ではなく、恵みだけによって救われるとしたら、なぜ律法に従う必要があるのか。嘘をついたり、姦淫したり、ポルノを見たりしても、まだ救われるのではないか。もし恵みだけによって救われるのなら、罪を避ける理由は何なのか。」

実際に、この点について疑問を持つクリスチャンもいます。

もし、律法やルールによって救われるのではないのなら、どのように生きても構わないのではないか。むしろ、クリスチャンとしての生活を送りたいのであれば、ルールに従うべきではないか。もしルールに従わなければ、この世の人々と同じようになってしまうのではないか。

あるユダヤ人のクリスチャンたちは、パウロやガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「もし律法を捨てるなら、あなたたちは不信者のようになってしまうでしょう。」

そして、彼らはパウロやガラテヤのクリスチャンたちがモーセの律法に違反したり、罪を犯したりする様子を見ると、こう言いました。

「ほら、私たちが言った通りでしょう。あなたたちは不信者のように振る舞っている。あなたたちが教えている恵みの福音によって、あなたたちはキリストを罪に仕える者にしてしまっている。」

けれども、パウロはペテロと他のユダヤ人のクリスチャンたちにこう言いました。

私たちは、生まれながらのユダヤ人であって、「異邦人のような罪人」ではありません。

しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。

律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。(ガラテヤ人への手紙2:15-16)

要するに、「ペテロ、私たちは異邦人ではなく、ユダヤ人です。それでも、モーセの律法によって、人々が神様に義と認められることはできないことを認めるでしょう。律法に従うことによって、義と認められる人は誰もいません。」

どうしてでしょうか。それは、律法に完全に従う人が誰もいないからです。もし律法によって義と認められたいなら、律法に完全に従わなければならないのです。

そこで、パウロはペテロに言いました。「異邦人だけではなく、私たちも義と認められたいと思うなら、イエス様とその十字架の働きを信じなくてはならないのです。」(16)

そして、パウロはユダヤ人のクリスチャンたちの異議について話しました。

しかし、もし、私たちがキリストにあって義と認められようとすることで、私たち自身も「罪人」であることになるのなら、キリストは罪に仕える者なのですか。(17a)

要するに、ある人々はクリスチャンたちを指して、こう言いました。「あなたたちはイエス様に属していると主張しているが、まだ罪を犯しているではないか。あなたの福音は罪を促すものであり、あなたのキリストは罪に仕える者なのではないか。」

ところが、パウロは答えました。

決してそんなことはありません。(17b)

そしてパウロは説明します。

もし自分が打ち壊したものを再び建てるなら、私は自分が違反者であると証明することになるのです。(18)

パウロが意味したことは何でしょうか。おそらく、パウロは次のように意味しているのです。

「仮に、あなたの望み通りに私が律法を再び建て、異邦人たちに『あなたたちはクリスチャンになるためにモーセの律法に従わなくてはならない』と言ったとしたら、彼らは罪を犯さなくなるでしょうか。律法に従おうとしているあなたたちは、もう罪を犯さなくなるのでしょうか。

いいえ、あなたたちは律法に従おうとしても、なお罪を犯すでしょう。

では、律法を再び建てると、その結果はどうなるでしょうか。私たちは罪を犯さなくなるわけではありません。むしろ、私たちはもう一度悟るのです。『私たちは罪人なので、救い主が必要です。』」

では、この箇所から私たちは何を学ぶことができるでしょうか。神様の律法の従順によって義と認められるという概念を捨てなければなりません。なぜなら、律法によって私たちは義と認められないからです。律法ができることは、ただ私たちの罪を指摘することだけなのです。

だから、神様に義と認められたいなら、唯一の方法しかありません。それは、イエス様を信じることです。次のブログで、そのことについてさらに詳しく話します。

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