この箇所では、パウロは福音をユダヤ人クリスチャンたちの攻撃から守ろうとしていました。彼らが主張するのは、パウロが宣べ伝える恵みの福音は罪に導くものだということです。
しかし、パウロは自分が伝えた福音を擁護するだけでなく、相手の福音の問題点を指摘しました。彼はこう言いました。
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。(ガラテヤ人への手紙2:21)
簡単に言えば、もし私たちが神様に義と認められるために律法を守らなければならないとしたら、イエス様はなぜ死なれなければならなかったのでしょうか。神様は古い体制を続けて、イエス様が死ぬ必要はなかったはずです。
けれども、その必要がなかったとしたら、なぜ神様はイエス様が殴られ、鞭で打たれ、十字架につけられることを許されたのでしょうか。イエス様がその苦しみを受けられたにもかかわらず、なぜ神様はもう一度私たちを律法の下に置かれるのでしょうか。それは理にかなわない話です。
それでも、今もなお多くの人々がそのように考えています。特に、カルトの人々はこう言います。「もちろん、イエス様はあなたの罪のために死なれたが、彼はあなたの罪の代価を完全に支払うことができませんでした。だから、あなたは自分の救いのためにまだ働かなければなりません。」
しかし、パウロはその考え方に反論します。「その考え方は愚かです。自分の努力によって救いを得ることはできません。もしあなたがそうできるのなら、神様はイエス様を十字架に送られることはなかったでしょう。」
この議論を通して、パウロは「イエス様が神様への多くの道の一つである」という考え方に反論します。
もし仏教やヒンズー教、その他の宗教によって人が神様に義と認められるのなら、神様はその道を用いられたはずなのです。
もし他の道があったのなら、なぜ神様はイエス様が十字架で苦しまれることを許されたのでしょうか。それは意味をなさないのです。
だから、天国への別の道があるという考え方を捨てましょう。また、私たちが自分の努力によって救いを得られるという考え方も捨てましょう。
他に道がなかったからこそ、イエス様は十字架で死なれました。他の道があると主張し、イエス様の十字架を軽んじることがないようにしましょう。
