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ガラテヤ人への手紙

律法とは何か、その役割とは(3)

ガラテヤ人への手紙3:22-25

前回の記事で私たちが確認したのは、律法が神様の作られたもう一つの救いの道ではないということです。むしろ、律法の目的は、私たちをキリストへ導くことです。パウロはこの真理をさらに具体的に説明します。

しかし、聖書は、すべてのものを罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(ガラテヤ人への手紙3:22-23)

パウロはローマ人への手紙第7章から第8章で、似たことを書きました。

その箇所でパウロが述べたのは、律法が現れる前、人々は罪が何であるかを理解していなかったということです。彼らは、自分の行いが神様を悲しませていることを知らず、幸せな人生を送っていました。

そして、神様は律法を示され、「あなたはこのように生きるべきです」と言われました。

けれども、人々はその律法を見たとき、「ああ、そうか。知らなかった。ごめんなさい。これから、あなたの道を歩みます」とは言いませんでした。むしろ、彼らの神様への態度はさらに反抗的になったのです。

悔い改める人もいましたが、神様を喜ばせたいと思っても、律法を完全に守ることはできませんでした。彼らはまだ罪深い心を持っていたため、律法を完全に守ることは不可能でした。言い換えると、彼らはまだ罪の奴隷だったのです。

それでも、キリストが来られるまで、律法はある程度、人の罪を抑制していました。だから、パウロは言いました。

信仰が現れる前、私たちは律法の下で、監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。(23)

要するに、律法は旧約聖書の信者たちの罪を完全に止めることはできませんでしたが、その罪をある程度抑制しました。だから、パウロはこう言いました。

こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認めらえるためです。(24)

パウロの時代、養育係は少年の人生、特にその道徳を監視しました。その少年がどこへ行っても、養育係も同行し、少年がトラブルに巻き込まれないように見張っていました。登校するとき、養育係はその少年を連れて行き、先生に預けました。

律法も旧約聖書の信者たちに対して同じ役割を果たしました。律法は彼らが罪に巻き込まれないように監視しました。(もっとも、彼らが罪に陥ることもありました。)

そして、律法は彼らを本当の先生、すなわちイエス様へと導きました。、律法はどのようにして彼らを導いたのでしょうか。

律法を通して、神様は救い主についての多くの描写を与えられました。例えば、全焼のいけにえ、過ぎ越しの祭り、贖罪の日などは、イエス様を指し示すものでした。

もちろん、それ自体は信者たちを救うことはできませんでした。けれども、その描写を通して、イエス様の時代に至るまで、モーセやほかのイスラエルの民は神様に従い続けました。

そして、イエス様が現れたとき、神様を愛する人々は、その描写を覚えていて、イエス様とその十字架の働きの意義を理解し(ヨハネ5:39、46)、イエス様を信じました。

もう一度言います。律法自体は彼らを救うことはできませんでした。しかし、律法によって、彼らはイエス様を信じるようになりました。

もちろん、旧約聖書の信者たちはイエス様を知りませんでした。そのため、神様のご計画を具体的に知ることはできませんでした。

それでも、彼らは、そのイエス様の描写を信じたので救われました。彼らは律法の従順によって救われたのではなく、その信仰によって救われたのです。

パウロはこの真理を次のようにまとめます。

しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。(25)

イエス様がすでに来られたので、その描写が明らかになり、私たちの信仰はもはや微かなものではありません。

モーセやほかの旧約聖書の信者たちとは異なり、私たちには、もはや微かな描写は必要ありません。キリストにあって、私たちは真実のものを持っているので、律法という養育係は不要です。

むしろ、私たちは救いのためにイエス様だけを信頼します。そして、イエス様が私たちに与えてくださった聖霊様を通して、私たちは自然に神様を喜ばせ始めます。

だから、さまざまな規則に従うことに焦点を当てるのではなく、感謝を持って十字架を仰ぎ、聖霊様の導きによって歩みましょう。それが真のクリスチャンの生活です。

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