神様が私たちを養子とされることは、驚くべきことです。
神様は、私たちをペットとして受け入れることもできたでしょう。
神様は、私たちを人間として認め、単なる知り合いの関係を築くこともできたでしょう。
神様は、私たちをただのしもべや奴隷として受け入れることもできたでしょう。
神様は、私たちを友人としてさえ受け入れることもできたでしょう。
ところが、神様はそれ以上のことをしてくださいました。神様は私たちを養子とされたのです。その結果、私たちは神様の子供となりました。
パウロはこう言いました。
あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。キリストにつくバプテスマを受けたあなたがたはみな、キリストを着たのです。(ガラテヤ人への手紙3:26-27)
パウロによれば、私たちは信仰によって神様の子供となりました。文字通りパウロが言ったのは、私たちが神様の息子たちになったということです。
もちろん、パウロは女性のクリスチャンたちが男性になったと言っているわけではありません。むしろ、パウロは非常に驚くべきことを伝えたいと考えていました。そして、ガラテヤ人たちはそれを聞いて、おそらく衝撃を受けたでしょう。
なぜでしょうか。
その時代、息子たちだけが遺産を受ける権利を持っていました。しかし、パウロによれば、今やすべてのクリスチャン—男性であれ女性であれ—が、その遺産を受ける権利を持っているのです。
さらに、パウロはこう言いました。
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)
それ以前、ユダヤ人たちは異邦人を部外者として扱っていました。さらに、彼らは女性を見下しました。もちろん、奴隷の立場は決して良いものではありませんでした。
ところが、パウロによれば、神様の目には、イエス様に属する者は皆、天の父にも属し、神様の子供とされたのです。私たちは皆、イエス様の義の衣を着せられ、私たちの身分はイエス様にあります。
ガラテヤ人たち(そして、私たちも?)がそのことを十分に理解できなかったかもしれません。そこで、パウロは私たちを当時の子供になぞらえました。
その時代、子供はある意味、奴隷のような立場でした。要するに、子供は相続人でありながら、まだその遺産を受け取っていませんでした。むしろ、父がその子供を公式に自分の相続人として認めるまで、その子供は後見人や管理人のもとに置かれていたのです。(ガラテヤ人への手紙4:1-2)
そのように、神様に養子とされる前、私たちは奴隷のようでした。私たちは天の遺産を受ける権利を持っておらず、律法が私たちの管理人でした。律法は私たちに、「こうしなさい。ああしなさい」と命じました。
その戒めによって、私たちは大体正しい道を歩んでいましたが、律法を完全に守ることができなかったため、神様の相続人として認められず、その権利をまったく持っていませんでした。(ガラテヤ人への手紙4:3)
しかし、神様が私たちを正式に養子とし、ご自身の相続人とされたとき、すべてが変わりました。
まず、神様はイエス様の十字架の働きを通して、私たちを贖われました。つまり、神様は私たちをご自身のものとして買い取られたのです。そして、私たちが神様を信じた瞬間、神様は私たちを正式に養子とされました。(ガラテヤ人への手紙4:4-5)
それだけではなく、神様は御子の御霊を私たちの心に遣わされました。その御霊は叫びます。「アバ、父よ。」
要するに、三位一体の神様は私たちとの新しい関係を祝われます。
私たちは愛されているペットではありません。私たちはただの知り合いではありません。私たちは単なるしもべや奴隷ではありません。私たちはただの友人ではありません。
むしろ、私たちは王の息子たち、娘たちです。
だから、パウロはこう言いました。
ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。(ガラテヤ人への手紙4:7)
あなたは、自分のことをどのように見なすでしょうか。どのように神様を見なすでしょうか。神様があなたの父であり、自分が神様の子供であることを理解できるでしょうか。神様はそのように私たちを認めておられます。だから、私たちもそのように考えるべきです。
自分を取るに足らない者として考えないでください。あなたには価値があります。あなたは王の子供です。
だから、そのように生きましょう。
