この手紙から、私たちはパウロがガラテヤ人たちに対してどれほど困惑していたかを知ることができます。
パウロが初めてガラテヤに来たとき、彼は何かしらの肉体的な問題を抱えていました。そのため、彼はガラテヤ人たちに負担をかけましたが、それにもかかわらず、彼らは喜んでパウロを歓迎しました。
どうしてでしょうか。それは、パウロが宣べ伝えた福音が彼らを罪から解放し、新しい命を与えたからです。福音を聞いたとき、彼らは神様の喜びと祝福に満たされました。
こうした理由から、ガラテヤ人たちはパウロを心から気遣い、その愛が彼に溢れ出しました。彼らは、できる限りパウロを助けたいと願いました。パウロは彼らについてこう言いました。
私はあなたがたのために証ししますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出して私に与えようとさえしたのです。(ガラテヤ人への手紙4:15)
しかし、ユダヤ人のクリスチャンたちの影響によって、すべてが変わってしまいました。
彼らの喜びは失われ、パウロのことを疑い始めました。彼らは、パウロが福音を正しく教えたかどうかを疑いました。また、パウロが福音から重要な真理を削除したのではないかと考え、自分の救いさえも疑うようになりました。
そこで、パウロは彼らに問いかけました。
あなたがたの幸いは、今どこにあるのですか。。。私はあなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。(15-16)
「幸い」という言葉は、「祝福」という意味もあります。つまり、ガラテヤ人たちは信仰によって受けた神様の尊い賜物を失ったのです。
どのようにしてその賜物を失ったのでしょうか。
彼らは古い宗教的な修行や儀式に戻りました。
救いを得るために、彼らは自分の行いと努力に頼ったため、彼らにとってイエス様の十字架の御業の価値は失われてしまいました。
気をつけなければ、私たちもガラテヤ人たちのようになってしまうかもしれません。もし私たちのクリスチャン生活がルールに基づくものになってしまえば、私たちは自分の喜びと祝福を失うでしょう。そして、神様の好意を得ようと努め始めるでしょう。
そして、最終的に二つの結果が生じます。
一つ目は、自分が成功していると思い、プライドを持つことです。
二つ目は、そのルールを完全に守れないと気付き、落ち込むことです。
しかし、成功したと思っても、失敗したと思っても、私たちは神様の喜びと祝福を失ってしまいます。
けれども、私たちの救いが恵みによるものであることを悟ると、私たちは謙遜と感謝の態度を持つようになります。
私たちは神様の恵みに値しないことを理解するので、謙遜になります。また、私たちは神様の裁きを受けるに値するはずなのに、神様が恵みと憐れみを私たちに注いでくださったことを知ります。
さらに、その恵みと憐れみによって、私たちは喜びと感謝に満たされます。したがって、私たちは神様の祝福を受けるだけでなく、その祝福は私たちを通して周りの人々へと流れていきます。
あなたはどうでしょうか。プライドに満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。それとも、失敗と失望に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。もしかしたら、喜びと祝福に満ちたクリスチャン生活を送っているでしょうか。
