多くの人々はこの記事のタイトルを読んで、こう考えるかもしれません。「キリストから離れる?恵みから落ちてしまう?それは何と酷いことだろう。」
アメリカでは、ノン・クリスチャンであっても「恵みから落ちてしまう」という表現を使うことがあります。この言葉の意味は、ある尊敬されていた人が酷いことをしたために、その評判が失墜するということです。
しかし、この箇所でパウロが話しているのは、殺害や強姦、賄賂、その他の重大な犯罪についてではありません。
むしろ、パウロは律法主義について語っています。つまり、もし私たちが律法によって神様に義と認められようとするならば、私たちはキリストから離れ、恵みから落ちてしまうのです。
パウロは彼らに警告しました。
よく聞いてください。私パウロがあなたがたに言います。もしあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに、何の益ももたらさないことになります。
割礼を受けるすべての人に、もう一度はっきり言っておきます。そういう人には律法全体を行う義務があります。(ガラテヤ人への手紙5:2-3)
要するに、「律法主義の考え方を受け入れるならば、すべての律法を完全に守らなければ、あなたは神様に義と認められません。
割礼を受けるだけでは十分ではありません。旧約聖書に書かれているすべての律法に従わなければなりません。さらに、もしあなたが律法によって神様に義と認められようとするならば、キリストの死はあなたに何の益もないのです。」
ユダヤ人のクリスチャンたちが教えていたのは、「キリストの死を信じ、さらに努力して律法に従うならば、ガラテヤ人たちは義と認められる」という考え方でした。ところが、その考え方は間違っていました。
救いの道は二つしかありません。一つは、人が完全に律法を守ることです。もう一つは、イエス様を信じて、イエス様の義を受けることです。それ以外の方法は存在しません。
だから、パウロはガラテヤ人たちにこう語りました。
律法によって義と認められようとしているなら、あなたがたはキリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。(4)
律法によって神様に義と認められようとするならば、あなたは実際にイエス様に背を向けているのです。あなたは基本的にイエス様にこう言っているのです。「あなたの十字架の働きは私には十分ではありません。」
その態度を取ることによって、あなたはイエス様の働きを否定することになってしまうでしょう。
モルモン教の教えによれば、あなたが努力して善を行えば、神様はあなたに恵みを与えてくださり、あなたは救われるとされています。
ところが、自分の行いによって救いを得ようとするならば、パウロの教えによれば、あなたは恵みを受けることができず、むしろ、恵みから落ちてしまうのです。
パウロは続けてこう言います。
私たちは、義とされる望みの実現を、信仰により、御霊によって待ち望んでいるのですから。(5)
私たちは今もなお罪を犯しています。それでもイエス様の十字架の働きによって義と認められています。
さらに、それだけではなく、私たちはより素晴らしい希望を持っています。それは、イエス様が再び来られる日、私たちは変えられ、真に義なる者となり、二度と罪を犯さなくなることです。
ローマ8:23で、パウロは「私たちは新しい体を受ける日を待ち望み、うめく」と語っています。なぜ、私たちはその日を待ち望むのでしょうか。
その理由の一つは、もう病気や死に向き合う必要がなくなるからです。
しかし、もう一つの理由は、罪との戦いを経験しなくなることです。その日、私たちは真に罪から自由にされます。
それこそが、私たちの義の希望です。そして、その希望を持っている人は罪に耽ることはありません。むしろ、自分を救ってくださった方を喜ばせたいと願うのです。それは、自らの救いを得るためではなく、すでに与えられた救いを喜ぶためです。
だから、パウロはこう語ります。
キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。(6)
あなたはどうでしょうか。まだ神様の好意を得ようとしているでしょうか。それが、神様を喜ばせるためのあなたの動機でしょうか。
あるいは、すでに神様に義と認められたことを知り、罪から完全に解放される日を楽しみにしているでしょうか。その希望があるゆえに、神様を愛し、喜ばせたいと願っているでしょうか。
