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ペテロの手紙第一のデボーション

不確かな時代に対応すること

コロナウイルスで、健康的な問題や、経済的な問題と向き合って、私たちは本当に不確かな時代に生きています。

では、私たちはどのように対応するべきでしょうか。

ペテロの読み手は、違う問題に直面しました。それは迫害です。それでも、私たちがペテロの言葉を私たちの状況に当てはめることができると思います。

ペテロはこう言いました。

最後に言います。みな、一つ思いになり、同情し合い、兄弟愛を示し、心の優しい人となり、謙虚でありなさい。

悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(ペテロの手紙第一3:8-9)

以前言ったように、ペテロは迫害と、迫害に対する私たちの反応について話しています。

でも、この大変な時期、人間関係がちょっとぎすぎすしたものになるのは簡単なことです。

また、ある人々は政府の対応に不満で、文句を言ってばかりです。

でも私たちはそうするべきではありません。むしろ、神様は私たちをほかの人々を祝福するように呼びます。

私たちの人生が大変になっても、謙虚な態度を持って、心の優しい人となるべきです。また、私たちは周りの人々に同情し、彼らを愛するべきです。

また、私たちは悪口や、呪いや、文句などを控えて、人々を私たちの言葉と行動で祝福するべきです。(10)

そしてペテロはこう言います。

人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(14-15)

ペテロは迫害について話しているので、翻訳者はペテロの言葉を「人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません」と訳しました。

それはペテロが意味したものかもしれないけど、もう一つの訳し方があります。

実は、ペテロはイザヤ書8:12ー14を引用していました。

イザヤが書いた時、イスラエル人たちは、アッシリヤの軍隊を怖がりました。でも、神様はイザヤにこう言いました。

この民が恐れるものを恐れてはならない。おびえてはならない。万軍の主、主を聖なる者とせよ。

主こそ、あなたがたの恐れ。主こそ、あなたがたのおののき。そうすれば、主が聖所となる。(12-14)

主を聖なる者とすることは、どういう意味でしょうか。それは、主だけを恐れるという意味です。私たちは、ほかのものよりも、万軍の主に畏敬の念を抱くべきです。

ペテロはその言葉をイエス様に当てはめます。私たちはキリストを万軍の主として認めるべきです。私たちは、すべてのものよりも、キリストを畏れるべきです。

そうすれば、私たちが人に襲われても、コロナウイルスに襲われても、イエス様は私たちの聖所となります。

私たちは、ほかの人たちが恐れるものを恐れてはいけません。私たちはコロナウイルスを恐れてはいけません。経済的な問題を恐れてはいけません。

むしろ、私たちは神様に畏敬の念を抱いて、神様を礼拝するべきです。そして、嵐の中でも、神様は私たちの聖所になります。

では、私たちは病気にならないのでしょうか。私たちは経済的な問題を経験しないのでしょうか。

実は、コロナウイルスのせいで、倒産するクリスチャンもいるかもしれません。亡くなる人もいるかもしれません。

でももしかしたら、このウイルスを通して、神様は私たちに思い出させようとしています。

「この世はあなたの家ではありません。あなたはただ寄留している人です(第一ペテロ1:1)。私はあなたのために永遠の住まいを準備している中です。また、あなたのために、永遠の遺産を準備している中です。」

それは私たちの希望です。

その希望を周りの人々にシェアしましょう。もし怒りや恐れに負けないで、むしろ、私たちが周りの苦しんでいる人たちを祝福すれば、彼らは「どうして私を祝福してくれるの?」と訊くかもしれません。

その時、ペテロの言葉を覚えていてください。

あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。(15)

そして、あなたが希望を失いそうだったら、あなたの希望の基礎を覚えていてください。

キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。

それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(18)

だから、この不確かな時代に、この歌を覚えていて歌いましょう。

Because he lives I can face tomorrow.
イエス様が生きておられるので、私は明日に向かうことができます。
Because he lives, all fear is gone.
イエス様が生きておられるので、すべての恐れは消えてしまった。
Because I know he holds the future,
イエス様が将来を自分の手に持っていることを知っている。
And life is worth the living just because he lives.
イエス様が生きておられるので、私には生きがいがあります。

ーービル・グイザー

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エペソ人への手紙

私たちが一つになるように

5年前にこの箇所を読んだとき、私は改めてパウロの言葉を認識しました。 それ以前は、パウロの言葉をどのように自分の人生に当てはめられるかを考えていましたが、実際には、彼が語っていたのは個々のクリスチャンではなく、教会全体についてであると気づきました。

ユダヤ人と異邦人の間にあった隔ての壁は取り壊され、私たち皆がクリスチャンとして一つにされました。

この文脈の中で、パウロは今日の箇所を書きました。 彼のポイントは、私たちがどのようにキリストのからだの一致を保つことができるかということです。

25節から、パウロはそのことを強調しています。

ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです。(エペソ人への手紙4:25)

真実を語らなければ、一致を保つことはできないでしょう。 友人関係でも、結婚関係でも、教会の関係でも、それは同じです。

時々、私たちは真実を軽く考えすぎます。例えば、私たちは簡単に罪のない嘘を語ります。(それは本当に罪のないものでしょうか。)

また、兄弟や姉妹が罪を犯したとき、その人の反応を恐れて何も言わないことがあります。

しかし、15節によれば、私たちは愛を持って真理を語るべきです。 その目的は、相手が成長することです。

ところで、真理を語るとき、「愛を持って」ということは非常に大切です。 ある人は自分の正直さを自慢しますが、彼らの目的は相手を建て上げることではなく、むしろ相手を取り壊そうとすることです。

もしそのような態度であるならば、黙っていた方がよいでしょう。 けれども、神様の前で「私はこの人を愛し、建て上げたい」と言えるなら、どうぞ真実を語ってください。

そして、パウロはこう言います。

怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。(26-27)

私たちは怒ってもよいのです。 けれども、その怒りをどのように処理するでしょうか。

あなたはただ相手に怒鳴るでしょうか。 あるいは、その怒りを静かに心に留め、苦々しい根を張るでしょうか。

もしそうすれば、あなたは悪魔に自分を操る機会を与えることになります。

しかし、もう一度言います。 パウロは主に教会に向けて語っています。

もし教会のメンバーが心の中で怒りを持ち続けるなら、サタンはその機会を利用して教会を分裂させ、壊そうとするのです。

そして、パウロは続けて言います。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。(28)

その言葉から、重要な原則を見ることができます。 単に相手を傷つけることをやめるだけでは不十分なのです。 私たちは相手を建て上げなくてはなりません。

なぜなら、私たちの目的は、キリストのからだを建て上げることだからです。

次の記事でこの話を続けますが、その前に少し考えてみてください。

私たちの行動によって、キリストのからだの一致を保っているでしょうか。 あるいは、私たちの行動によって、キリストのからだを分裂させてしまっているでしょうか。

私たちはキリストのからだを建て上げているでしょうか。 それとも、キリストのからだを取り壊しているでしょうか。

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エペソ人への手紙

私たちの目的を果たすには

ディズニー映画『アナと雪の女王』では、エルサ女王が自分の力を現してしまい、人々の恐れによって王国を離れざるを得なくなります。

それまでエルサは、自分の力を周囲の人々から隠していました。けれども、追放された後、彼女は「ありのままの姿を見せるのよ。ありのままの自分になるの」と決意します。

そして、彼女は歌います。

もう自由よ。
何でもできる。
どこまでやれるか、自分を試してみたい。

英語では、彼女はこう歌います。

正しいも悪いもない。
私にとって、もうそんなルールは存在しないのよ。
私は自由だから。

しかし、その「自由」は長くは続きませんでした。 妹のアナがエルサのもとを訪れ、彼女が「自由」を活用した結果、王国がどれほど混乱してしまったかを伝えます。

だから、エルサは英語の歌でこう歌います。

なんて愚かだったの….自由なんて無理。
内なる嵐から逃れる術はないのよ。
コントロールできない…この呪いを!
なんて恐ろしい。

そして、アナがエルサに「すべてを治せる」と説得しようとしたとき、エルサは答えました。

「私にはできない。」

多くの人々は「ありのままで」という歌を好みますが、エルサが最終的に何を悟ったのかを理解している人はどれほどいるでしょうか。

つまり、本当の自由はただ自分自身を理解することからは生まれないのです。

なぜなら、私たちの内にあるものは、結局私たちを滅ぼしてしまうからです。そして、私たちは自分自身を恐れるようになり、また、自分の問題を解決することができないと気づきます。

けれども、多くの人々はこのことに気づいていません。むしろ、パウロによれば、彼らはむなしい心で歩んでいるのです。

パウロはこう言います。

彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。

無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています。(エペソ人への手紙4:18-19)

もちろん、このすべての言葉をエルサに当てはめることはできません。なぜなら、その映画はクリスチャンの寓話ではないからです。

とはいえ、エルサの知性が暗かったため、彼女は自分がどうあるべきかわかりませんでした。彼女を拒絶した人々の影響で心が頑なになり、彼女は自分の道を進むことで自由を得たと思いました。

同じように、多くの人々の知性が暗く、彼らは自分が何者であるべきかを理解できません。神様は愛を持って彼らを御自身の似姿に造られましたが、彼らは無知のゆえに神様に対して頑なな心を持っています。

そのため、彼らは善悪という「鎖」を捨て、自分の道を歩んでしまいます。そして、「自分の道を行けば自由を見つけられる」と思っています。

ところが、結局彼らは自由を得ることはありません。むしろ、人生は混乱し、何をすればよいのかわからなくなってしまいます。

クリスチャンとして、私たちはそのように生きるべきではありません。

むしろ、私たちは古い人生を捨てるべきです。私たちは古い態度や習慣も捨てなくてはなりません。 なぜなら、それらは腐敗したものであり、それに従い続ければ、私たちは滅びてしまうからです。(22)

特に、私たちは一つの考え方を捨てなくてはなりません。それは、神様からの独立を求める態度です。 自分の道を行くことで自由を得ることはできません。むしろ、その道は呪いとなり、私たちを縛ってしまいます。

だから、パウロは言います。

あなたがたが霊と心において新しくされ続け(なさい)。(23)

神様が私たちの心を変えてくださるように祈るべきです。 そして、私たちは「真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着るべきです。」(23ー24)

私たちはそのような人になるべきです。私たちは神様のように歩むべきです。

もちろん、クリスチャンにはそれぞれ違いがあります。私たちは多様な賜物を与えられており、それぞれの性格を持っています。 クリスチャンになったからといって、それらを失うわけではありません。

むしろ、エルサのように、私たちの賜物は神様の計画のもとで美しく輝くものとなります。 また、神様の御心に従うことで、私たち自身も神様が意図された通りに美しい創造物となります。

しかし、その美しさを持つためには、自給自足の態度を捨てなくてはなりません。神様からの独立を求める思いを捨てなくてはなりません>。 そして、私たちは自分が何者であるべきかを忘れずに歩まなくてはなりません。

それは、神様の似姿に造られた者であるということです。

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エペソ人への手紙

キリストの満ち満ちた身丈にまで達する

この世を見れば見るほど、私たちはその混乱の深さに気づかされます。そして、自分自身の人生を振り返ると、それもまた壊れ、乱れていることを認めざるをえません。

この世も、私たちの人生も、壊れた、不完全なものなのです。その壊れた世界と人生を癒すことができるのは、ただお一人――イエス様だけです。

そのために、イエス様はこの世に来られました。第9〜10節によれば、イエス様は人間としてこの地に来られ、私たちの罪のために命をささげてくださいました。そして、死を打ち破って復活され、天へと昇られました。

その目的とは何でしょうか。それは、「キリストがすべてのものを満たすため」であると書かれています。

つまり、イエス様は人を内側から満たし、壊れた人生を癒し、渇いた心に命を注いでくださるお方です。そして最終的には、罪によって傷ついたこの被造世界全体をも、完全に回復してくださいます。

パウロはこう言いました。

(イエス様)はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。(エペソ人への手紙4:8)

「捕虜」とは誰のことでしょうか。もしかすると、イエス様に敗れた悪霊たちかもしれません。けれども、より可能性が高いのは、彼らがイエス様によって自由にされた罪の奴隷たちであった、ということです。イエス様は彼らを解放し、神の御国へと導き、さらに贈り物を与えてくださいました。

その贈り物とは何でしょうか。

第一に、永遠のいのちです。

第二に、御霊です。御霊は私たちのうちに住み、新しく生まれ変わらせ、私たちをますますイエス様のかたちに変えていってくださいます。

第三に、使徒、預言者、伝道者、牧師および教師といった、キリストのからだに仕える人々です。

たとえば、パウロやペテロのような使徒たちは、初めて福音を宣べ伝えました。

預言者たちは神様のことばを語り、私たちを教え、励まします。

伝道者たちは人々をイエス様のもとへ導いてくれます。

牧師と教師たちは、私たちの霊的な必要を養い、イエス様について教え、正しい道へと導いてくれます。

しかし、これらの人々がすべての奉仕を担うわけではありません。先ほども述べたように、彼らは教会への神様の贈り物なのです。では、なぜ神様はそのような人々を教会に与えてくださったのでしょうか。

それは、聖徒たち(つまり、すべてのクリスチャンたち)を整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。(12-13)

要するに、私たちは互いに建て上げ合い、互いの信仰を強め合い、イエス様について教え合う存在であるべきです。その結果として、私たちは成熟へと導かれていきます。

もちろん、一人ひとりのクリスチャンが成熟することも大切ですが、同時に教会全体がキリストにおいて成熟していくのです。

教会があらゆる点においてイエスのかたちに近づくとき、私たちがこの世に触れるにつれて、イエス様はすべてのものを満たされます。

ここで注目すべきは、パウロが「私たちは一人の成熟した大人となる」と語っていることです。

「多くの成熟した大人たちになる」とは言っていません。むしろ、「一人の成熟した大人となる」と強調しています。私たちは一つのからだとして結び合わされていきます。すなわち、完全に成熟したキリストのからだへと成長していくのです。

では、私たちはどのような者になってはいけないのでしょうか。私たちは、あらゆる教えの風に吹き回され、もてあそばれる子どものようになってはなりません(14節)。

むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。

キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。(15-16)

そうすれば、私たちは個々のクリスチャンとしても、教会としても、イエス様にあって完全なものへと成長していくのです。そして、私たちを通して、イエス様はすべてのものを満たし、癒してくださいます。

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エペソ人への手紙

教会の一致を守る

1〜3章で、パウロは「キリストにあって私たちは一つとされた」という真理を語っています。

モーセが受けたシナイ契約によって、ユダヤ人たちは異邦人たちと隔てられていましたが、イエス様の十字架によってその隔ての壁は打ち壊されました。こうして今、ユダヤ人も異邦人も、ただ一人のかしらであるキリストのもとに結び合わされているのです。

そしてその驚くべき一致の真理を語り終えたあと、パウロはこう言いました

さて、主にある囚人の私はあなたがたに勧めます。あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ人への手紙4:1)

言い換えるなら、「神様に召された教会として、その召しにふさわしく歩みなさい」ということです。

では、その召しとは何でしょうか。それは、キリストにあって一つの体となることです。そして、その体を通して、神様はご自身の知恵と栄光をこの世に現したいと願っておられます。

この手紙の残りの部分で、パウロは、私たちがどのように「キリストのからだ」として生きるべきかを教えています。つまり、キリストのからだとして、どのようにして神様の栄光と知恵を現していけるのでしょうか。

パウロは、こう語ります。

謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい。(2-3)

「謙遜の限りを尽くしなさい。」

私にとって、これは決して簡単なことではありません。子どもの頃からクリスチャンとして育ち、さまざまなことを学んできた私にとって、プライドを抱くのは容易なことです。

でも実のところ、私はいまなお学びの途上にあり、失敗もすれば、罪を犯すこともある者です。だからこそ、周りの人々に接するとき、私は自分の弱さを心に留めていなければなりません。

他の人の失敗や罪を目にするとき、私は謙遜をもって、柔和な心をもって接するべきです。

さらに、神様が私に寛容を示してくださったように、私も他の人々に寛容を示すべきです。だからこそ、私は人々を軽蔑せず、彼らの失敗や弱さ、罪に対しても、憐れみの心で応じる者でありたいのです。

そしてパウロはこう語ります。「御霊による一致を、平和のきずなで熱心に保ちなさい。」

私たちは一つです。神様は私たちを一つの教会とされました。しかし、この一致を守るには、意識的な努力が求められます。私たちの罪深い性質のゆえに、この一致は簡単に壊れてしまうおそれがあるからです。

だからこそ、私たちは平和のきずなを大切にし、積極的にその一致を守り続けていかなければなりません。

私たちは、御霊による一致を熱心に保っているでしょうか。あるいは、兄弟姉妹の罪や過ちを見て、すぐに心の中で彼らを引き離してしまってはいないでしょうか。

このような問いかけの中で、パウロは私たちにもう一度思い起こさせてくれます。

あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。

主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです。(4-6)

簡単に言えば、私たちは一つのからだです。同じ御霊が私たちのうちに住んでおられます。

イエス様にあって、私たちは同じ希望を持っています。私たちは同じ救い主に属し、同じ信仰を持ち、皆がイエス様の御名によってバプテスマを受けました。

私たちは同じ父に属しています。その父なる神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父です。

それが真実なら、なぜ私たちは互いに引き裂き合おうとしているのでしょうか。

サタンは分裂した教会を見ると喜びます。分裂した教会には、神様の知恵と栄光をこの世に現す力がありません。

だからこそ、その分裂的な霊を捨て去りましょう。

神様は私たちを一つとされました。その一致を、熱心に保ち続けましょう。

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エペソ人への手紙

私たちが神様の栄光で満たされるように

歴代誌第一には、ソロモンが神殿を完成させた後のこの出来事が、このように記されています。

祭司たちが聖所から出てきたとき、雲が主の宮に満ちた。祭司たちは、その雲のために、立って仕えることが出来なかった。主の栄光が主の宮に満ちたからである。(列王記第一8:10-11)

ソロモンの神殿が主の栄光で満たされたように、神様の望みは、ご自身の教会がその栄光で満ちることです。だから、パウロはそのために祈ったのです。

どうか御父が、その栄光の豊かさに従って、内なる人に働く御霊により、力を持ってあなたがたを強めてくださいますように。

信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。

そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。

そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ人への手紙3:16-19)

パウロは、ただ一人のエペソのクリスチャンに宛てて書いたのではありません。むしろ、すべてのエペソのクリスチャンたちを対象として書いていました。彼は「あなた」ではなく、「あなたがた」と記していたのです。

もちろん、パウロは個々のクリスチャン一人ひとりのためにそれを願っていました。

しかし、この祈りを記したとき、彼はエペソの教会のクリスチャンたちを「一つのもの」として捉えていました。なぜなら、キリストにあって、すべてのクリスチャンは一つだからです。

第2章では、パウロはそのことを繰り返し強調しており、第3章と第4章でも同じテーマが続けて語られています。

パウロの祈りを言い換えると、次のようにまとめることができます。

神様、あなたの御霊を通して、一人ひとりのクリスチャンの内に働いてくださる中で、あなたの教会全体に力を与えてください。

イエス様、あなたに対する彼らの信仰によって、どうか彼らの心のうちに住んでください。

天のお父様、彼らがあなたの愛にしっかりと根を下ろすことができますように。その愛が彼らの人生の土台となりますように。

そして、その愛に深く根差すにつれて、彼らが互いの兄弟姉妹への愛にも生きることができますように。

そのように愛に生きる中で、彼らがあなたの知恵と愛の広さ、長さ、高さ、深さを共に理解し、知る者となりますように。

そして、かつてソロモンの神殿があなたの栄光で満たされたように、あなたの教会があなたの満ちあふれる豊かさにまで満たされますように。

それこそが、教会に対する神様の望みです。神様のご計画は、私たちが神様の神殿となり、神様の栄光に満たされて、その栄光をこの世に映し出すことです。

しかし、それは私たち自身の努力によって成し遂げられるのではありません。むしろ、神様が教会に力を与え、教会のうちに働いてくださるときに、そのことは実現するのです。

ですから、自分自身や教会を見て落胆しそうになるときには、思い出してください。神様は、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うこと、思い描くことのすべてを、はるかに超えて成し遂げることのできるお方です(エペソ3:20)。

神様は今も奇跡を行われます。壊れた人生や教会を、栄光に満ちたものへと変えてくださるのです。私たちがすべきことは、ただ神様と協力することです。

そして、いつの日か、神様は私たちのうちにおいて、また、十字架で流された血によって私たちを贖われた御子において、栄光を受けられるのです。

ですから、絶望しないでください。むしろ、パウロの賛歌を私たちの祈りとして歌いましょう。

どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。(20-21)

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エペソ人への手紙

自由と確信

私たちは、キリストにあって与えられている恵みや特権を、どれほど当たり前のこととして受け止めてしまっているでしょうか。

パウロによれば、旧約の預言者たちや祭司たちは、神様のご計画の奥義を完全に理解していたわけではありません。おそらく、彼らはその一部すらも十分に把握していなかったでしょう。

もしモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルといった人々が、現代の教会の姿を見ることができたなら、どう思うでしょうか。彼らが、クリスチャンたちが大胆に神様に近づいている様子を目にするなら、きっと驚きに満たされることでしょう。

しかし、パウロはこう語っています。私たちは、今やそのような大胆さをもって、神様に近づく権利を与えられているのです。

私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(エペソ人への手紙3:12)

その預言者たちは、神様に大胆に近づく確信を持っていたでしょうか。彼らには、「アバ、父」と神様を呼ぶ自由があったでしょうか。

おそらく、そうではなかったでしょう。

彼らが神様に近づくときには、恐れを感じていたと思われます。たとえ神様の御前にいないときでも、自分の失敗や罪を意識していたはずです。

また、祭司たちは幕屋や神殿に赴き、聖所や至聖所に入る際には、細心の注意を払わなければなりませんでした。そうでなければ、命を落とすことさえありうると、彼らは理解していたのです。

そんな祭司たちが、クリスチャンたちが神様に自由に近づく姿を見たなら、何を思ったでしょうか。

しかし、イエス様とその十字架の御業のゆえに、私たちは罪から清められ、イエス様の義を着せられています。そして、イエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができるのです。

私たちの姿を見て、天使たちも悪霊たちも、きっと驚いていることでしょう。(エペソ3:10)

なぜなら、私たちは神様の民とされたからです。私たちは自分の義を身にまとうのではなく、イエス様の義を着せられているのです。

さらに、神様が私たちを喜んで受け入れてくださっているので、私たちは喜びをもって、大胆に神様の御前に進み出ることができるのです。

もし旧約時代の預言者たちや祭司たちがこれを目にしたとしたら、どれほど驚いたことでしょうか。

そして、あなたはどうでしょう。この恵みに、驚いているでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人(2)

私たちは神様の恵みの務めを与えられた者ですが、多くのクリスチャンはこう言うかもしれません。「でも、私はパウロではありません。パウロがしたことを私にはできません。私はただの普通のクリスチャンですから。」

けれども、神様はあなたをパウロのように召しているのではありません。あなたもパウロも神様の恵みの務めを与えられた者ですが、それぞれ異なるかたちでその務めを果たすのです。

それでも、神様があなたを導いてくださる中で、あなたは福音を語り、周りの人々に触れるはずです。

あなたは、こう言うかもしれません。「でも、私は資格がありません。その働きにふさわしくありません。」

実は、パウロ自身もそう感じていました。彼はこう語っています。

私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。

すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり。。。(エペソ人への手紙3:7-8)

パウロは、自分が神様の恵みの務めを受けるにふさわしくない者だと感じていました。彼は「私はすべての聖徒たちのうちで最も小さい者です」と語りました。

なぜパウロはそう感じたのでしょうか。それは、彼がかつて教会を迫害し、多くのクリスチャンを逮捕したり、殺したりしていたからです。

それにもかかわらず、彼はこう言いました。「キリストの測り知れない富を福音として異邦人に伝えるために、私は神様の恵みを与えられたのです。」

パウロは自分の資格を誇りませんでした。自分の賜物や才能を誇りませんでした。むしろ、こう語りました。「神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、私は福音に仕える者となったのです。」

神様はあなたもまた、福音に仕える者となるよう召しておられます。あなたも神様の恵みの務めを与えられたのです。なぜでしょうか。それは、神様がその恵みをあなたに豊かに注いでくださったからです。

良いしもべとなるために、特別な資格や賜物は必要ありません。自分の知恵や力に頼る必要もないのです。

むしろ、この恵みの務めを果たすためには、あなたは神様から与えられた恵みと力に頼るべきです。その恵みと力によって、あなたはこの務めを忠実に果たすことができるはずです。

さらに、パウロによれば、神様のご計画は、教会を通してご自身の多面的な知恵をこの世に示すことです。

しかし、「教会」とは建物を指しているのではありません。教会とは、あなたと他の信じる者たちのことなのです。あなたを通して、神様はご自身の知恵を現したいと願っておられます。

「でも、私は弱いです。私はただの一般人です。神様がどうやって私を用いられるのでしょうか。」

あなたが弱く、平凡な存在であるからこそ、神様はあなたを用いることができるのです。なぜなら、弱くて平凡な人々は、神様の力にすがる以外に道がないからです。

パウロはこう言っています。「私たちが弱いときにこそ、私たちは強いのです。」(第二コリント12:9-10)

さらに、パウロはこう語りました。

兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。(コリント人への手紙第一1:26-27)

神様はご自身の知恵を現すために、強い者たちを募集しておられるのではありません。むしろ、神様は弱い者を求めておられるのです。

なぜでしょうか。それは、人々があなたの人生において神様がなされたこと、また神様があなたを通して周囲にどのように触れておられるかを見るとき、驚かされるからです。

そのため、ユダヤ人の宗教的指導者たちは、ペテロとヨハネのことに驚いたのです。

彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒の働き4:13)

そのように、私たちを見た人々は、驚かされることでしょう。

彼らが私たちを見るとき、私たちがイエス様と共に歩んできた者であることが、彼らにも分かるように。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの務めを与えられた人

2節で、パウロはこう言いました。

あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。(エペソ人への手紙3:2)

パウロのように、私たちは神様の恵みの務めを与えられました。神様が私たちに恵みを与えてくださった理由は、私たちがただその恵みを浴びるからではありません。周りの人々に触れるとき、私たちはその恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、パウロの恵みの務めは、私たちの務めと違うところがあります。パウロはいろんな教会を始めたり、神様の恵みに関する聖句、また、福音の奥儀に関する聖句を書いたりしました。

今なお、教会を始める賜物を持っている人がいるけど、すべての人々がその賜物を持っているというわけでもありません。そして、ある人は聖書を教える賜物を持っているけど、新しい聖句を書く賜物を持っている人は誰もいません。

でも、私たち皆は自分の賜物を用いて、恵みの務めを果たさなくてはなりません。

もちろん、私たちは周りの人々に福音を宣べ伝えるべきです。さらに、私たちは神様の愛で周りの人々に触れるべきです。周りの人々は私たちを見ると、神様の恵みの務めを与えられた人々を見るはずです。

でもまず、我々クリスチャンたちは、互いにその恵を与え合うはずです。パウロはこう言いました。

それ(つまり、キリストの奥儀)は、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。(エペソ人への手紙3:6)

神様は初めてアブラハムを呼んだとき、「すべての部族は、あなたによって祝福される」と約束しました。(創世記12:3)

でも、どのように神様がその約束を守るか何年も不明でした。しかし、パウロは「その答えは啓示されました」と言います。

つまり、イエス様とその十字架の御業によって、私たち皆は、ユダヤ人でも、異邦人でも、アジア人でも、白人でも、黒人でも、男性でも、女性でも、神様の相続人になったということです。私たち皆はイエス様を通して神様の約束を受けます。

そして、神様の意図は、イエス様において成し遂げられた、永遠のご計画によって、教会を通して、神様の極めて豊かな知恵が天上にある支配と権威に知らされることです。(10-11)

教会を見ると、天使たちと悪霊たちは神様の極めて豊かな知恵を見ます。

特に、彼らは神様の計画の不思議さを見ます。それは、いろんな国からの人たちは、男性でも、女性でも、神様から豊かに与えられた愛で、互いに愛し合うということです。

その互いの愛によって、クリスチャンたちは、神様が彼らを造った目的を果たして、神様に栄光を反映します。

天使たちと悪霊たちだけではなく、この世界の人々はそれを見るはずです。そう見ると、彼らも神様の恵みに驚いて、魅せられます。

でも、それは実際に起こっているでしょうか。多くの場合、私たちはこの世界に対して、またほかのクリスチャンたちに対して、忠実に神様の恵みの務めを果たさないので、ノンクリスチャンはそれを見ないでしょう。

あなたはどうですか。その務めを忠実に果たすでしょうか。あなたの教会は?

あなたを見ると、周りの人々は神様の愛と恵みがあなたから彼らに、またほかのクリスチャンたちに流れることを見るでしょうか。

あなたは忠実に務めを果たしているでしょうか。

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エペソ人への手紙

神に受け入れられた

キリスト教が始まった当初、異邦人に対するクリスチャンのユダヤ人たちの考え方がどれほど変わったかは、驚くべきことです。

それ以前、ユダヤ人は神様との関係が自分たちだけに属するものだと考えていました。もし異邦人が神様との関係を望むならば、ユダヤ教の規律に従わなければなりませんでした。

そのため、神殿の中庭には「隔ての壁」が設けられていました。異邦人は異邦人の庭まで入って礼拝することはできましたが、その壁には次のような警告が記されていたのです。

「これより中に入る異邦人は、死刑に処す。」

パウロは、エペソの信徒たちにこの問題を思い起こさせました。

そのころ(異邦人たちがクリスチャン人なる前)は、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。(エペソ人への手紙2:12)

神様はアブラハムとの契約やモーセとの契約を通して、ユダヤ人と特別な関係を結ばれました。そして、神様はユダヤ人に対し、「メシアが来て、あなたを救う」と約束してくださったのです。

その一方、異邦人は部外者でした。彼らは神様との関係を持っておらず、その約束も彼らには当てはまりませんでした。そのため、彼らは神様から遠く離れ、救いの希望を持つことができませんでした。

言い換えれば、神の国の門は異邦人に対して閉ざされ、鍵がかけられていました。さらに、そこには「部外者立ち入り禁止」と記された看板が掲げられていたのです。実のところ、私たちもかつては同じ状態にありました。

ところが、パウロはここで続けて語ります。

しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。

キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。

こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。

また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました。(13-17)

パウロによれば、十字架の御業によって、イエス様は隔ての壁である敵意を打ち壊されました。

けれども、パウロが「隔ての壁」と言うとき、それは物理的な壁のことではありません。むしろ、パウロはモーセの律法について語っていました。

イエス様が十字架で死なれる前、その律法はユダヤ人と異邦人の間にそびえる大きな壁でした。ユダヤ人は律法を守る者でしたが、異邦人は律法の外にある者でした。

ところが、実際には、ユダヤ人も律法を完全に守ることができませんでした。そのため、律法はユダヤ人に対しても、異邦人に対しても、大きな壁となり、誰一人として神様に近づくことができなかったのです。

しかし、キリストが来られたとき、彼は律法を完全に成就し、私たちの罪の罰を十字架において支払ってくださいました。それゆえ、神様と私たちの間の壁だけでなく、ユダヤ人と異邦人の間の壁も取り除かれたのです。

クリスチャンにとって、「内」と「外」という区別はもはや存在しません。むしろ、イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、皆が一つとなったのです。

イエス様を信じるユダヤ人も異邦人も、すべての人には天の父に近づく道が開かれています。

私たちは別々の方法で天の父に近づくのではなく、同じ御霊を受け、その御霊を通して天の父に近づくのです。

神の国には、市民と外国人の区別はありません。むしろ、イエス様を信じるすべての人が神の国の市民となります。そして、私たちは皆、神様の相続人としての権利をすべて持っているのです。

だから今、私たちは皆、神様が住んでおられる一つの宮となります。私たちを通して、神様はご自身をこの世に現してくださいます。イエス様は私たちの要の石であり、使徒と預言者の言葉は私たちの土台です。

それなら、教会の兄弟姉妹を見るとき、私たちは彼らをどのように見ているでしょうか。もしかすると、彼らの人種や性別のゆえに、私たちは彼らを二流市民と見なしてしまうでしょうか。また、別の理由で彼らを見下してしまうことがあるでしょうか。

私たちは皆、イエス様への信仰によって、神様に受け入れられた者です。だから、敵意と隔ての壁を捨て去りましょう。

むしろ、パウロの言葉に従いましょう。

ですから、神の栄光のために、キリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。(ローマ15:7)

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エペソ人への手紙

神様の作品

私は、今日の御言葉が本当に大好きです。

実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(エペソ人への手紙2:10)

ある英語の聖書では、「作品」という語を「傑作」と訳しています。

神様は退屈しのぎに私たちを造られたのではありません。いい加減な思いつきでもありません。

神様は、愛と喜びを込めて、私たちを造ってくださいました。ご自身のご計画に従って、私たちを形づくられたのです。そして神様は、私たちをご覧になると、心から誇っておられるのです。

さて、私はもう一つの語句に目を留めました。それは、「キリスト・イエスにあって造られた」という表現です。

この語句を以前に読んだとき、私はパウロが、母の胎内で私たちが形づくられることを指しているのだと思っていました。

しかし今回、「キリストにあって」という言葉をあらためて読むと、パウロがまったく別の創造について語っているのではないかと気づかされました。

もちろん、神様は私たちが母の胎にいるときから造っておられます。でも、私たちがキリストにある者となるとき、神様は私たちを「新しい創造」として、もう一度お造りになるのです。

それゆえ、パウロは次のように語っています。

ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5:17)

神様が私たちを新しく造られたときの目的は、私たちが再び罪に戻り、自分自身のために生き続けることではありません。むしろ、神様のご計画は、私たちがご自身があらかじめ備えてくださった良い行いのうちを歩むことなのです。

言い換えれば、神様は私たちを新しく造る前から、すでに私たちのためにご計画を持っておられました。私たちが歩むべき働きも、出会うべき人々も、神様はすでに整えてくださったのです。

ですから、私たちは日々こう祈るべきです。「神様、今日、あなたのご計画は何でしょうか。私は何をするべきでしょうか。今日、私は誰に触れるべきでしょうか。」

けれども、現実にはそのように祈ることを忘れてしまいがちです。そのために、神様が整えてくださったチャンスを見逃してしまうことがあるのです。私自身も、神様が備えてくださった機会を見過ごしてしまったことがあったと感じます。

私たちは、そのように生きないようにしましょう。今日という日は、ただの「普通の日」ではありません。むしろ、神様があなたのために特別なご計画を持っておられる一日なのです。

だからこそ、神様が今日整えてくださったことを、心を開いて探し求めましょう。

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エペソ人への手紙

神様の恵みの不思議さ

1章では、パウロは、エペソの信徒たちがキリストにあって自分たちが何を受けているのかを正しく理解できるようにと祈りました。

そして2章では、パウロはその真理を、彼らに対して明確に語り始めます。

私たちも神様のことばを伝えるとき、同じようにすべきです。まず、神様が語る相手の霊的な目を開いてくださるように祈り、そして神様のことばを、相手が理解できるように明確に語る責任があります。

さて、今日の箇所では、私たちは神様の恵みの深く不思議な性質を見ていきます。

私たちはかつて、自分の罪の中で死んでいました。霊的な命をまったく持っていませんでした。私たちはサタンの支配のもとを歩み、神様に背を向けていました。神様を喜ばせようという思いなど一切なく、むしろ自分自身の欲を満たすことのために生きていました。

私たちは、生まれながらにそのような心を持っていたのです。

だから、パウロはこう言いました。

私たちもみな。。。ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ人への手紙2:3)

私たちは、生まれた日から神様に背く心を持っていたため、神様の御怒りを受けるべき存在でした。

パウロの時代のユダヤ人たちのように、ある人は、神様を信じる家庭で育ち、御言葉に親しんできたことから、自分は神様に受け入れられていると思っているかもしれません。

しかし、パウロはユダヤ人について次のように語りました。「神様に背く私たちの心のゆえに、私たちもまた、神様の御怒りを受けるべきでした。私たちは律法を与えられていましたが、その律法を全うすることができなかったのです。」

今日も同じように、多くの人が教会に通い、聖書を読み、道徳的には他の人よりも良い人であるかもしれません。けれども、彼らもまた神様の律法を完全に守ることができないため、神様の御怒りを受けるべき存在なのです。

だから、ローマ書の中で、パウロはこう述べています。

そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることが出来ず。。。(ローマ書3:22-23)

神様はその私たちの姿をご覧になって、私たちを見捨ててしまわれたのでしょうか。「彼らはもうだめだ」と呆れ果てて宣言されたのでしょうか。

いいえ、決してそうではありません。むしろ、パウロはこう語ります。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした。(エペソ2:4-7)

私たちは、かつて罪の中で死んだ者でした。死んだ者に何ができるでしょうか。何もできません。

けれども、神様は私たちをよみがえらせ、ご自身に応答できる心を与えてくださいました。そして、私たちが信仰をもって神様に立ち返ると、神様は私たちに新しい命を与えてくださいました。

神様は、罪という泥沼から私たちを引き上げ、清めてくださいました。そのため、私たちは神様の目において完全な者とされたのです。

もし神様がそれだけしてくださったのだとしても、私たちはその恵みの驚くべき豊かさにただただ圧倒されたことでしょう。

ところが、神様はそれ以上のことをなしてくださいました。神様は私たちを、イエス様とともに天に座らせてくださいました。さらに、私たちを御子として養子にしてくださったのです。そしてある日、神様の相続人として、私たちはイエス様とともに治めることになるのです。

なぜ、神様はそこまでしてくださるのでしょうか。それは、ご自身の恵みの豊かさをあらわすためです。神様は、私たちがその恵みの素晴らしさをたたえるようにと望んでおられたのです。

そして、パウロはこの恵みの物語を、次のように締めくくります。

この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(8-9)

神様の恵みの不思議さとは、こういうことです。私たちは救いを求めようともせず、その救いにふさわしくもなかったのに、神様はなおも私たちを救ってくださいました。

私たちの救いは、ただ神様から来たものです。そして、私たちの信仰さえも神様から与えられたものです。「私は救いに値する」と誇ることができる人は、だれひとりいません。救いは初めから終わりまで、完全に神様の賜物なのです。

さらに神様の恵みの不思議さは、私たちを単に救ってくださったということだけではありません。神様は私たちを養子として迎えてくださいました。そして私たちを、ご自身の相続人としてくださったのです。

だからこそ、私たちは日々その恵みに驚き、心からたたえましょう。

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エペソ人への手紙

本当に分かることができたなら

私たちは、キリストにあってどれほど祝福されているかを理解しているでしょうか。おそらく、私たちはその真理を十分に把握してはいないかもしれません。

もちろん、私たちは神様の愛と恵みについて聞き、それを信じています。けれども、その愛と恵みの深さを本当に理解しているでしょうか。

私は三十年以上クリスチャンとして歩んでいますが、今なお、その愛と恵みという真理の「浅瀬」を歩いているにすぎないと感じています。

もしかすると、だからこそ、パウロはエペソの信徒たちのために、次のように祈ったのではないでしょうか。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ人への手紙1:17-19)

パウロは、エペソのクリスチャンたちが神様を深く知るために、聖霊様を与えられたと語っています。

もちろん、彼らはすでにある程度神様を知っていましたが、聖霊様はさらに神様を知ることができるように、知恵と啓示を与えてくださいました。聖霊様がおられなければ、私たちは神様を知ることにおいて、すぐに限界にぶつかってしまいます。

けれども、パウロは別の手紙で、このようにも記しています。

それを、神は私たちに御霊によって啓示してくださいました。御霊はすべてのことを、神の深みさえも探られるからです。

人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。(第一コリント2:10-11)

要するに、聖霊様を通して、私たちは本当に神様を知ることができます。私たちは神様についての事実を知るだけでなく、神様ご自身を知ることができるのです。

もちろん、私たちは完全に神様を知り尽くすことはできません。その深さを探るには、永遠の時を要するでしょう。たとえ天国に到達しても、私たちは毎日、神様について新たなことを知ることになるに違いありません。

しかし、聖霊様が私たちのうちに住んでおられ、天の父を私たちに現してくださることによって、私たちは少しずつ神様を知るようになっていくのです。

とはいえ、聖霊様は神様についてだけを教えてくださるわけではありません。パウロはこのように語りました。

しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。(第一コリント2:12)

神様は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。上記のパウロの祈りの中に、その答えが記されています。

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。(エペソ1:18-19)

私たちは、神様が与えてくださった希望を本当に知っているでしょうか。たとえこの世界が暗く感じられるとしても、「この世界を越えた何かがある」という確かな希望を抱いているでしょうか。

また、イエス様がすべてを治められるという希望を持っているでしょうか。もちろん霊的な領域において、イエス様はすでにすべてを統治しておられます。なぜなら、イエス様は十字架においてサタンに勝利されたからです。

けれども、私たちはある日、すべての人がひざまずき、「イエス様は主である」と告白する時が来ることを望み見ているでしょうか。私たちは、イエス様が最後の敵である死を打ち破ってくださるという希望を持っているでしょうか。

さらに、私たちは神様が豊かに注いでくださるその愛を、どれほど知っているでしょうか。

神様が私たちを「ご自身の栄光に富んだ資産」と呼んでくださっていることを、私たちは知っているでしょうか(※新改訳聖書の18節脚注を参照)。

そして、私たちが罪や病や死から解放され、復活の体を受ける日を神様ご自身が待ち望んでいてくださることを、私たちはどれほど心に留めているでしょうか。

私たちは、神様の力にアクセスできることを本当に知っているでしょうか。

その力こそが、イエス様を死から復活させたのです。その力は、私たちを日々きよめてくださいます。その力によって、私たちは新しい、栄光に満ちた体を受けるのです。その力によって、私たちは目の前の問題や試練を乗り越えることができます。

最後に、私たちは、自分がキリストにあって何者であるかを知っているでしょうか。私たちは、キリストのからだの一部なのです。私たちはこの世に遣わされ、イエス様の臨在を広げるように召されています。私たちは、すべての場所を神様の恵みと愛で満たすように呼ばれているのです。

このすべてのことを、私たちはどれほど理解しているでしょうか。もし本当に理解したならば、私たちの人生はどれほど大きく変えられることでしょうか。

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エペソ人への手紙

神様の愛によって選ばれて、祝福された

エペソ人への手紙1~2章を読むと、神様がイエス様を信じる私たちに何を与えてくださったのか、その驚くべき恵みにあらためて心を打たれます。

パウロは、この手紙を賛美の言葉で始めています。

私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ人への手紙1:3)

私たちは、どのような祝福を受けたのでしょうか。

すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。

神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ。。。(4-8)

それは、なんと素晴らしいことでしょう。パウロによれば、神様はこの世を造られる前から、すでに計画を持っておられました。神様は、私たちがご自分の御前で聖く、傷のない者となるように、私たちを選ばれたのです。

私たちが罪深く、反抗的な者になることをよくご存じであったのに、それでもなお神様は私たちを選ばれました。

そのため、神様は私たちを救い、ご自分の子として養子にする計画を立ててくださいました。

私たちの罪が赦されるようにと、イエス様をお遣わしになりました。イエス様は十字架で死なれ、私たちの罪の罰を身代わりに受けてくださいました。

イエス様の血によって、神様は罪の奴隷であった私たちを自由にし、ご自分に愛されている息子や娘として、私たちを養子にしてくださいました。

さらに、「聖霊様は、私たちが御国を受け継ぐことの保証です。」(14節)

聖霊様は私たちを守り、サタンが私たちの神様との関係を壊そうとする試みを阻んでくださいます。また、聖霊様の臨在と、私たちの人生におけるその働きは、天国の片鱗です。なぜなら、天国に行けば、私たちは神様の御業を見、神様のみ顔を仰ぐことができるからです。

なぜ神様はそのように私たちを祝福してくださるのでしょうか。それは、私たちの良い行いへの報いなのでしょうか。いいえ、そうではありません。神様のみこころの良しとされるところに従って、そうしてくださったのです。

神様が選ばれたとき、誰を救い、誰を救わないかを無作為に決められたのではありません。むしろ、パウロによれば、神様は愛をもって私たちを選ばれました。私たちはその愛にふさわしくなかったのに、それでも神様は愛をもって、私たちに豊かな恵みを注いでくださいました。

神様がなぜ私たちを選ばれたのか、私たちには決して分からないでしょう。しかし、神様はご自身のご計画に基づいて、私たちを愛してくださったのです。

そういうわけで、救いの栄光は私たちに属するものではありません。むしろ、この個所で、パウロは三度こう語っています。「このすべては、神様の栄光のためです。」(6、12、14)

簡潔に言えば、私たちは神様の驚くべきご計画の一部です。その計画とは、この反抗的で罪深く、混乱した世界を、イエス様の支配のもとに一つにまとめ上げることです。

率直に言うと、私はこの真理の素晴らしさを十分に伝えることはできないと感じています。

神様とその恵みの素晴らしさを語り尽くせる言葉は、私にはないと思います。

だからこそ、私はしばらく黙って、その恵みを静かに噛み締めたいと思います。

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ガラテヤ人への手紙

大事なのは。。。

今日の箇所で、パウロはこの手紙の中で以前に述べたことをまとめています。特に、何が重要であり、何が重要ではないかについて語っています。パウロによれば、

  • 周りの人々が私たちについてどう考えるかは重要ではありません。特に、彼らに認められる必要はありません。(ガラテヤ人への手紙6:12)
  • 律法に従うための私たちの努力も重要ではありません。なぜなら、律法によって義と認められたいと思うなら、律法を完全に守らなければなりません。ところが、完全に律法を守れる人は誰もいないからです。(ガラテヤ人への手紙6:13a)
  • 神様のために私たちが成し遂げることへの誇りも重要ではありません。特に、神様の御心を誤解しているなら、その誇りは無意味なものになります。(ガラテヤ人への手紙6:13b)
  • 割礼を受けているかどうかも重要ではありません。心に変化をもたらさない儀式や宗教的な習慣は、何の意味も持ちません。(ガラテヤ人への手紙6:15a)

私たちは、これらすべてのものに対して死んだはずです。また、これらのものも私たちに対して死んだはずです。(14)

その一方で、重要なのはただ一つ。それは、イエス様の十字架の御業によって、私たちが新しい創造物とされたということです。(14-15)

私たち自身の努力によって変わるのではありません。むしろ、聖霊様の力によって、私たちは完全に変えられるのです。重要なのは、この真理です。

そして、パウロはこう語りました。

この基準にしたがって進む人々の上に、そして神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。(16)

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ガラテヤのクリスチャンたちにこう言いました。「割礼を受け、モーセの律法に従えば、神のイスラエルに属することができます。」

しかし、パウロはこう答えました。「その考え方は誤っています。イエス様への信仰と聖霊様の力によって、あなたたちは変えられ、神様の民とされるのです。」

この真理を理解すると、どうなるでしょうか。あなたは平安を得ます。自分の力で神様の律法に従おうとすることの重圧から解放されます。そして、神様の憐れみをより深く知るにつれ、裁かれることへの恐れも消えていきます。

あなたはどうでしょうか。自分の力でクリスチャン生活を歩もうとしていませんか。聖書の規則を守ることで、良いクリスチャンになろうと考えていませんか。

あるいは、あなたは受けた恵みによって安心し、毎日、聖霊様と共に歩み、その導きに従っているでしょうか。

パウロがそうしたように、私もあなたのために祈ります。

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。(18)

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ガラテヤ人への手紙

私たちが蒔く種

私は、良い農家にはなれなかっただろうと思います。子どものころ、みかんの種かリンゴの種を蒔きましたが、すぐに成長してほしいと思っていました。1~2日経っても何も変化がなかったので、すぐに諦めてしまいました。

農業には忍耐が必要ですが、当時の私には全く忍耐がありませんでした。

とはいえ、ある意味で私たちは皆、種を蒔く者です。そして、私がかつて蒔いた種とは違い、最終的に私たちは自分の蒔いたものを刈り取ることになります。

そして、パウロはこう書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。

自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。(ガラテヤ人への手紙6:7-8)

ガラテヤの教会や他の教会でも、ある人々はパウロの教えを曲げました。パウロは恵みによる救いを教えましたが、彼らはこう言いました。

「パウロの言うことは、私たちが好き勝手に生きてもよいという意味です。あえて罪を犯しても、どうせ赦されるのだから。」

しかし、パウロは答えました。「神様は愚かではありません。あなたたちは神様を侮ることはできません。神様はあなたたちの心と行いをすべてご存じです。あなたたちがイエス様を信じると主張しながら、自分勝手に生きるなら、神様はその本質を見抜かれるでしょう。

だから、この世では罪の結果を何とか避けることができても、裁きの日に神様の前に立つとき、あなたは滅びます。」

その一方で、もしあなたが本当に神様を愛し、聖霊様を喜ばせようとするなら、永遠の命を刈り取ることになるのです。

そして、パウロは私たちを励まします。

失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。(9)

神様の働きの成果をすぐに見られないと、私たちは簡単に落胆してしまいます。私たちはファストフードの文化に生きており、すぐに結果を見たいと思ってしまいます。けれども、種が成長するには時間がかかります。一朝一夕で育つものではありません。

同じように、御霊を喜ばせるために蒔く種も、すぐに成長しないことがあります。時には、一生をかけてもその実を見ることができない場合もあるでしょう。

それでも、パウロは私たちを励ましているのです。

「その種は必ず成長します。あきらめてはいけません。失望してはいけません。蒔いたものから成果を刈り取ることができます。さらに、永遠の命を刈り取るのです。」

では、私たちはどうすればよいのでしょうか。パウロはこう語ります。

ですから、私たちは機会があるうちに、すべての人に、特に信仰の家族に善を行いましょう。(10)

御霊を愛し、喜ばせる方法の一つは、周りの人々を祝福することです。神様は私たちを、家族、友人、同僚、そしてクリスチャンの兄弟姉妹に対する祝福となるように召されました。

そのように歩むとき、神様は私たちが蒔いた種の実を刈り取ることを約束しておられます。

あなたはどのような種を蒔いているでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

私たちを支えてくれる人を支える

牧師の働きは非常に大変です。もし神様からの召しがなければ、私も牧師になろうとは思わないでしょう。

牧師は、日曜日のメッセージを準備するだけでなく、教会のメンバーの問題にも対応しなければなりません。その責任を担うとき、彼らはメンバーの不平にも耳を傾けなければなりません。

すべてのメンバーが教会や牧師に満足する教会は、おそらくどこにもないでしょう。

私たちの牧師たちも、自分自身の負担を抱えています。もちろん、イエス様は彼らに教会を導く使命を与えられました。

けれども、それだけではなく、彼らには家族を支える責任もあります。そのため、人の不平や批判を聞くと、その負担が急に重くなり、時には耐えきれなくなることもあるでしょう。

パウロは、この現実をよく理解していたと思います。だから、彼は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」と言った後、こう語りました。

みことばを教えてもらう人は、教えてくれる人と、すべての良いものを分かち合いなさい。(ガラテヤ人への手紙6:6)

要するに、牧師は私たちに霊的な栄養を与え、霊的に支えてくれます。けれども、彼ら自身も支えられる必要があります。だからこそ、私たちはできる限り彼らを支えるべきです。

もちろん、彼らが家族を十分に支えることができるように、私たちは牧師を経済的に支える必要があります。そうすれば、彼らは神様から委ねられた働きに専念できるでしょう。しかし、それだけではなく、彼らには私たちの祈りと励ましの言葉が必要です。

私たちは牧師を「超クリスチャン」と見なしてしまいがちです。そのため、彼らもただの人間であり、私たちの支えを必要としていることを忘れてしまいます。私も時に忘れてしまうことがあります。

だから、意図的に彼らを支えましょう。彼らのために祈っていることを伝えましょう。メールや電話で励ましの言葉を届けましょう。言い換えると、牧師にとっての祝福となりましょう。

あなたはどうでしょうか。あなたは牧師にとって祝福となっていますか。

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ガラテヤ人への手紙

神様から委ねられた仕事に集中する

信じられないことですが、約25年前に私は日本へ引っ越しました。この25年間、神様が私を通して人々に触れられるのを見てきました。

しかし同時に、私はどれだけのことを成し遂げたのかを自問することもあります。神様は私にもっと期待されていたのでしょうか。正直なところ、私には分かりません。

自分自身を他の人とその働きと比べてしまい、落胆することは簡単です。なぜなら、彼らは私よりも神様のために多くのことを成し遂げているように見えるからです。

このことを考えると、私は謙遜な態度を持つべきだと思います。

だから、今日の箇所を読み、じっくりと味わううちに、さまざまなことを思い巡らせました。

そして、パウロはこう語りました。

だれかが、何者でもないのに、自分を何者かであるように思うなら、自分自身を欺いているのです。(ガラテヤ人への手紙6:3)

それを読むと、私たちは謙遜にならざるを得ません。なぜなら、私たち皆、何者でもないからです。何か特別な存在でありたいと願いますが、実際には取るに足りないしもべであり、ただなすべきことをするだけなのです。(ルカ 17:10)

もし私たちが何者かであると思うなら、自分自身を欺いているのです。だからこそ、私たちは自分自身にこう問いかけるべきです。「私は果たすべき役割を忠実に果たしているだろうか。」

そして、パウロはこう語ります。

それぞれ自分の行いを吟味しなさい。そうすれば、自分にだけは誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう。

人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。(ガラテや人への手紙6:4-5)

私たち皆、神様のしもべであり、神様は私たち一人ひとりにそれぞれの役割を与えてくださいました。だから、私たちは自分自身を他の人と比べるのではなく、神様から委ねられた仕事に集中すべきです。

また、もし私たちが神様のために何かを成すことができるなら、それを誇るべきではありません。自分が偉いと思ったり、他の人よりも優れた者だと思ったりしてはなりません。

むしろ、私たちはイエス様に「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と言っていただけることを望むべきです。

だから、自分自身を他のクリスチャンと比べてしまいそうになるとき、ペテロに対するイエス様の言葉を思い出しましょう。

あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。(ヨハネ21:22)

あなたは何に心を向けていますか。

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ガラテヤ人への手紙

御霊の実が形作る人間関係

神様との関係について考えるとき、私たちは次のような質問をよくします。「私は毎日、聖書を読んでいるだろうか。毎日祈っているだろうか。毎週の日曜日に教会へ行っているだろうか。」

けれども、神様との関係や自分の霊的な健康を考えるとき、本当に重要な尺度は私たちの人間関係です。

今日の箇所では、その真理を見ることができます。割礼やモーセの律法の従順についての議論のせいで、ガラテヤの教会では多くの人間関係の問題が次々と起こったようです。つまり、嫉みや争い、憤り、党派心、分裂などが生じたのでした(ガラテヤ人への手紙5:20-21)。

そのため、パウロは彼らに警告しました。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(ガラテヤ人への手紙5:15)

そして、パウロは、人間関係の中で私たちが御霊の実を結ぶべきであると語ります。例えば、愛、寛容、親切、善意、誠実などです。(22-23)

前回の記事で、私たちはガラテヤ人へのパウロの訓戒を見ました。

「あなたたちは、古い生き方を十字架につけたのではないでしょうか。その生き方に戻ってはなりません。自分の罪深い心に従ってはいけません。むしろ、御霊によって歩みなさい。

もしあなたたちがうぬぼれて、互いに挑み合ったり、妬み合ったりすると、聖霊様の導きに従うことができません。」(24-26)

では、私たちは互いにどのように接するべきでしょうか。6章では、パウロは実用的な勧告を与えています。

兄弟たち。もしだれかが何かの過ちに陥っていることが分かったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。(6:1)

律法主義的なクリスチャンには、二つの問題がありがちです。それはプライドと他者を責めることです。プライドによって、私たちは「私は良い人だ」と主張します。そして、人を責めるとき、私たちは「おまえはだめだ」と言ってしまいます。

もしかすると、ガラテヤの教会で、罪に陥った人がいたとき、ほかのクリスチャンたちは狼の群れのようにその人を攻撃したかもしれません。

けれども、パウロは彼らに問いかけました。「あなたたちは本当に御霊の人でしょうか。御霊はあなたたちを本当に導いているでしょうか。あなたたちは御霊の実を結んでいるでしょうか。

御霊の実は、柔和、親切、寛容、愛です。そのような態度をもって、その人を扱うべきです。その人を滅ぼそうとしてはいけません。その人を正してあげなさい。」

その際には謙遜な態度を持ちなさい。あなたたちも弱い者であることを認めなさい。あなたが罪に陥る可能性もあることを認めなさい。だから、相手の罪だけに集中するのではなく、自分自身も罪に落ちないように気をつけなさい。

そして、パウロはこう語りました。

互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。(6:2)

パウロが意味したことは、あるクリスチャンが罪悪感の重荷を担っているときや、罪と戦っているときに、私たちがその人を支え、励ますべきだということです。

パウロの言葉を言い換えると、「あなたはキリストの律法を守りたいと思うでしょうか。罪と戦っている人を攻撃してはなりません。その人を励ましなさい。その人のために祈りなさい。」

もちろん、罪だけではなく、クリスチャンが他の問題を抱えているときにも、私たちはその人を支え、励ますべきです。

それこそが御霊に導かれる人です。その人は、ただ聖書を読み、祈るだけではありません。むしろ、その人の人間関係には、御霊の実が豊かに結ばれます。

私は自分がそのような人かどうか分かりません。それでも、そのような人になりたいと願っています。あなたはどうでしょうか。

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ガラテヤ人への手紙

全く新しい生き方

前回の記事では、罪の豚小屋から自由にされた私たちが、再びその豚小屋に戻らないことについて話しました。

しかし、パウロはもう一度繰り返します。私たちは、自分の力で律法を守ろうとする態度によって、その豚小屋を避けることはできません。

むしろ、パウロはこう言います。

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。

肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。この二つは互いに対立しているので、あなたがたは願っていることができなくなります。(ガラテヤ人への手紙5:16-17)

パウロはこうは言いませんでした。「自分の力で律法を守れば、肉の欲望を満たさないだろう。」

むしろ、パウロは「御霊によって歩みなさい」と言います。要するに、私たちは毎日、聖霊様の力と導きによって歩まなければなりません。

だから、私たちは毎日、聖書を読み祈った後、神様に「じゃあ、行ってきます。またね。」とは言いません。

むしろ、私たちはこう祈るべきです。「聖霊様、私とともに歩んでください。一日中、私があなたの御声を聞こえるように。私があなたの導きに従うように助けてください。」

そうすれば、私たちは罪深い心の欲望を満たしません。

なぜでしょうか。私たちの罪深い心が望むことは、聖霊様が望まれることと正反対だからです。私たちの古い態度や習慣は、聖霊様が私たちの人生に望まれることとは、まったく異なっています。だから今なお、私たちは罪と戦い続けます。

パウロはローマ人への手紙 7:14-25 で、その戦いについて語っています。

しかし、毎日毎日、一瞬一瞬、私たちは聖霊様の声を聞き、従うことを学ぶにつれて、もはや古い道を歩むことはなく、むしろ、聖霊様は私たちを全く異なる道へと導いてくださいます。

だから心に留めておきましょう。律法の下にある人生は、聖霊様によって生きる人生とはまったく異なるものです。パウロはこの真理をはっきりと伝えています。

御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。(18)

その二つの道は、どのように違うのでしょうか。

律法の下にある場合、私たちは自分の力で生きなければなりません。つまり、自分の力で律法に従わなければならないということです。

けれども、聖霊様によって生きる場合、私たちは聖霊様の力によって生きます。

また、律法の下にある場合、私たちは常に裁かれているように感じます。

一方で、聖霊様によって生きる場合、私たちは「アバ、父」と叫びます。

さらに、聖霊様によって生きる人生は、罪の支配下にある人生とはまったく異なります。

パウロは、さまざまな罪を列挙しましたが、その内容は恐ろしいものです。(19-21)

パウロによれば、そのような罪を犯し続ける者は神の国を相続できません。

その一方で、聖霊様が住んでおられる人は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を持つ人です。(22-23)

ここで二つのことに注意してください。

一つ目は、その実があなたの人生において未成熟かもしれませんが、成長しているはずだということです。今のあなたの人生は、以前の人生と比べると、少なくとも少しは変化しているはずです。

二つ目は、パウロが「あなたの努力の実は、愛、喜び、平安などです。」とは言わないことです。むしろ、「御霊の実は、愛、喜び、平安などです。」と言います。

あなたが、まことのぶどうの木—つまりイエス様にとどまるなら、その実を結び始めるのです。(ヨハネ15章)

けれども、その関係を持っていなければ、その実を結ぶことはできないのです。

だからこそ、私たちは律法を守ることに集中すべきではありません。むしろ、イエス様と聖霊様とともに歩むことに集中すべきです。

そして、パウロはこう語ります。

キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架につけたのです。(24)

真のクリスチャンたちは、神様に対する頑なで反抗的な心を十字架につけました。彼らは罪深い心に屈服しません。罪との戦いはあるかもしれませんが、その罪を抱くことはありません。

だからこそ、パウロは私たちに訓戒します。

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。(25)

あなたは、神様が与えてくださった聖霊様によって永遠の命を受けました。

それでも今、あなたは自分の力でクリスチャン生活を送ろうとしていないでしょうか。

あるいは、あなたは毎日、神様について行き、御声を聞き、神様の力によってその導きに従っているでしょうか。

あなたは、どのように生きていますか。

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豚小屋に戻る?

この手紙の中で、パウロは、救いを得るためには神様の律法にも従わなければならないと考える人々に語っています。

もちろん、パウロは彼らの考えに同意できませんでしたが、彼らの懸念の一つには共感できました。それは、もし私たちがもはや律法の下にないのなら、好き勝手に生きても構わないのではないかという誤った考え方です。

あるガラテヤ人たちは、「もし私たちが律法の下にないのなら、自分のために生きてもいいだろう。恋人と寝てもいいし、娼婦と寝てもいいだろう。どんな罪を犯しても構わないだろう」と考えました。

そのため、パウロはこの考え方について語ります。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。(ガラテヤ人への手紙5:13)

パウロは言いました。「あなたがたは自由を与えられるために召されました。」

では、神様は私たちを何から自由にされたのでしょうか。

まず、神様は私たちを律法から自由にしてくださいました。神様の子として受け入れられるために、私たちは律法に完全に従う義務を負う必要はありません。また、神様の子供として、私たちが失敗しても、神様の裁きから解放されています。

けれども、神様は私たちをもう一つのものからも自由にされました。それは、私たちを滅ぼす罪深い生活です。クリスチャンになる前、私たちは罪の豚小屋に暮らしていました。そして、自分の罪深い心に従って生きていました。

では、罪深い心とは何でしょうか。その心は神様に反抗し、自分のために生きようとします。けれども、その罪深い心に従った結果、私たちの人生はめちゃくちゃになりました。結婚や人間関係、健康など、すべてが崩れてしまいました。

それでも、私たちを自由にするために、キリストは死なれました。イエス様は私たちの心に手術を施してくださいました。イエス様は、私たちの石の心を取り除き、肉の心を与えてくださいました。(エゼキエル書 36:26)

要するに、イエス様は私たちの反抗的な心を取り除き、神様に従いたい心を与えてくださいました。そして、私たちがイエス様に従うにつれて、イエス様は私たちを滅ぼす罪から自由にしてくださいます。

それでも、私たちの中には罪の名残がまだ残っています。つまり、罪深い態度や習慣が消えずに残っているのです。私たちは生きる限り、それらと戦い続けなければなりません。

だからこそ、パウロはこの言うのです。「その古い態度や習慣に屈服してはいけません。あなたは豚小屋に暮らしていた時、惨めな人生を送ったでしょう。なぜまたその豚小屋に戻りたいと思うのですか。むしろ、愛をもって互いに仕え合いなさい。」

律法と罪からの自由の喜びを本当に知りたいと思いますか。愛をもって人に仕えましょう。神様の愛を楽しむにつれて、その愛を周りの人々に分かち合いましょう。私たちは神様から受けた祝福を周りの人々に分け与えるためにデザインされました。

そうすれば、真の喜びを知るでしょう。豚小屋に戻ることは、喜びにつながりません。

そして、パウロはこう言います。

律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。(14)

言い換えると、もしあなたが本当に律法に従っているかどうかを心配しているなら、愛をもって人々に仕えなさい。自分の自由をそのように用いるなら、自然と律法に従うことになります。

一方で、もし私たちが豚小屋に戻るなら、その結果はどうなるでしょうか。

気をつけなさい。互いに、かみつき合ったり、食い合ったりしているなら、互いの間で滅ぼされてしまいます。(15)

あなたはどうですか。イエス様からの自由の喜びを知っているでしょうか。もしかすると、豚小屋に戻ってしまったのかもしれません。では、あなたはこれからどうするでしょうか。

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十字架の躓きを取り除こうとしている?

この前、私は言いましたが、多くの人々はクリスチャンのことを偏狭だと思っています。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって人が救われると信じているからです。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。けれども、彼らの動機は、現代の人々の動機とは異なっていました。

ユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしていました。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに反発しました。なぜなら、福音は信仰によってイエス様に来るすべての人々を歓迎するからです。クリスチャンたちは、割礼を受ける必要もなく、律法の細かい規定に従う必要もありませんでした。

ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で反発しました。

一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えていたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められていました。

ところが、パウロによれば、神様の民になる方法は律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。

だから、パウロはこう言いました。

ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)

簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民にはなりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。

けれども、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったため、その真理を受け入れることができませんでした。

それが、彼らがイエス様の十字架に反発する二つ目の理由でした。彼らは、神様に選ばれた民であることを誇っていました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分たちがほかの国民よりも正しいと思っていました。

もちろん、その律法を完全に守ることはできませんでしたが、それでも彼らは誇りを持っていました。

このように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇り、自分の義を誇ります。

そのため、クリスチャンたちが「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。

けれども、自分の宗教や義にしがみついている限り、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、神様から離れてしまっています。

パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人について、こう言いました。

しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。

あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(ガラテヤ人への手紙5:10,12)

以前、パウロは偽りの福音を宣べ伝える者は神様に呪われると語りました。(ガラテヤ人への手紙 1:8-9)

この箇所では、パウロは皮肉を用いて、同じことを繰り返しています。「もし、割礼を受けたいと思うなら、いっそ去勢された方がいいでしょう。」

ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞いて驚いたことでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された者は主の集会に加わることが許されていなかったからです。(申命記 23:1)

しかし、それこそがパウロの意図でした。「あなたが割礼を受けるなら、主の集会に加わる資格を失います。あなたは真の神様の民ではありません。」

このように、イエス様の十字架を拒み、自分の宗教と義によって救いを得ようとする者は、神様とその民から離れています。

もしあなたが、クリスチャンのユダヤ人たちのように、他の人を喜ばせるために福音を薄めるなら、あなたも神様とその民から離れるかもしれません。

十字架は、多くの人々にとって躓きです。それでも、私たちは彼らを喜ばせようとしてはなりません。たとえ相手が怒ったとしても、私たちは福音を正しく伝えなければなりません。

だからこそ、自分自身に問いかけるべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのか。神様か、それとも周りの人々か。」

パウロの言葉を心に留めておきましょう。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。

もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)