この前、私は言いましたが、多くの人々はクリスチャンのことを偏狭だと思っています。なぜなら、私たちはキリストの十字架の御業だけによって人が救われると信じているからです。パウロは、その真理を「十字架の躓き」と呼びました。
ユダヤ人のクリスチャンたちは、その十字架の躓きを捨てようとしていました。けれども、彼らの動機は、現代の人々の動機とは異なっていました。
ユダヤ人のクリスチャンたちは、ノンクリスチャンのユダヤ人たちの意見を気にしていました。
ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、十字架のメッセージに反発しました。なぜなら、福音は信仰によってイエス様に来るすべての人々を歓迎するからです。クリスチャンたちは、割礼を受ける必要もなく、律法の細かい規定に従う必要もありませんでした。
ノンクリスチャンのユダヤ人たちは、二つの理由で反発しました。
一つ目は、彼らがモーセの律法を真剣に考えていたことです。その律法によって、彼らは神様の民と認められていました。
ところが、パウロによれば、神様の民になる方法は律法に従うことではなく、イエス様に対する信仰です。
だから、パウロはこう言いました。
ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。(ガラテヤ人への手紙3:28)
簡単に言うと、ユダヤ人たちが誇る神様の律法によって、人は神様の民にはなりません。むしろ、イエス様を通して神様に来る人は皆、神様の民と認められます。
けれども、ユダヤ人たちは自分のプライドを捨てたくなかったため、その真理を受け入れることができませんでした。
それが、彼らがイエス様の十字架に反発する二つ目の理由でした。彼らは、神様に選ばれた民であることを誇っていました。神様が彼らだけに律法を与えたので、彼らは自分たちがほかの国民よりも正しいと思っていました。
もちろん、その律法を完全に守ることはできませんでしたが、それでも彼らは誇りを持っていました。
このように、プライドは人とキリストを隔てる大きな壁です。彼らは自分の宗教を誇り、自分の義を誇ります。
そのため、クリスチャンたちが「あなたの宗教は足りません。あなたの義は足りません」と言うと、ノンクリスチャンは怒ります。
けれども、自分の宗教や義にしがみついている限り、彼らは神様に近づくことができません。むしろ、神様から離れてしまっています。
パウロは、「割礼が必要だ」と教えた人について、こう言いました。
しかし、あなたがたを動揺させる者は、だれであろうと、裁きを受けます。。。
あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと切除(つまり、去勢)してしまえばよいのです。(ガラテヤ人への手紙5:10,12)
以前、パウロは偽りの福音を宣べ伝える者は神様に呪われると語りました。(ガラテヤ人への手紙 1:8-9)
この箇所では、パウロは皮肉を用いて、同じことを繰り返しています。「もし、割礼を受けたいと思うなら、いっそ去勢された方がいいでしょう。」
ユダヤ人たちはパウロの言葉を聞いて驚いたことでしょう。なぜなら、モーセの律法によれば、去勢された者は主の集会に加わることが許されていなかったからです。(申命記 23:1)
しかし、それこそがパウロの意図でした。「あなたが割礼を受けるなら、主の集会に加わる資格を失います。あなたは真の神様の民ではありません。」
このように、イエス様の十字架を拒み、自分の宗教と義によって救いを得ようとする者は、神様とその民から離れています。
もしあなたが、クリスチャンのユダヤ人たちのように、他の人を喜ばせるために福音を薄めるなら、あなたも神様とその民から離れるかもしれません。
十字架は、多くの人々にとって躓きです。それでも、私たちは彼らを喜ばせようとしてはなりません。たとえ相手が怒ったとしても、私たちは福音を正しく伝えなければなりません。
だからこそ、自分自身に問いかけるべきです。「私は誰を喜ばせようとしているのか。神様か、それとも周りの人々か。」
パウロの言葉を心に留めておきましょう。
今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。
もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1:10)
