私たちは、キリストにあって与えられている恵みや特権を、どれほど当たり前のこととして受け止めてしまっているでしょうか。
パウロによれば、旧約の預言者たちや祭司たちは、神様のご計画の奥義を完全に理解していたわけではありません。おそらく、彼らはその一部すらも十分に把握していなかったでしょう。
もしモーセ、エリヤ、イザヤ、エレミヤ、ダニエルといった人々が、現代の教会の姿を見ることができたなら、どう思うでしょうか。彼らが、クリスチャンたちが大胆に神様に近づいている様子を目にするなら、きっと驚きに満たされることでしょう。
しかし、パウロはこう語っています。私たちは、今やそのような大胆さをもって、神様に近づく権利を与えられているのです。
私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。(エペソ人への手紙3:12)
その預言者たちは、神様に大胆に近づく確信を持っていたでしょうか。彼らには、「アバ、父」と神様を呼ぶ自由があったでしょうか。
おそらく、そうではなかったでしょう。
彼らが神様に近づくときには、恐れを感じていたと思われます。たとえ神様の御前にいないときでも、自分の失敗や罪を意識していたはずです。
また、祭司たちは幕屋や神殿に赴き、聖所や至聖所に入る際には、細心の注意を払わなければなりませんでした。そうでなければ、命を落とすことさえありうると、彼らは理解していたのです。
そんな祭司たちが、クリスチャンたちが神様に自由に近づく姿を見たなら、何を思ったでしょうか。
しかし、イエス様とその十字架の御業のゆえに、私たちは罪から清められ、イエス様の義を着せられています。そして、イエス様を通して、私たちは確信を持って、大胆に神様に近づくことができるのです。
私たちの姿を見て、天使たちも悪霊たちも、きっと驚いていることでしょう。(エペソ3:10)
なぜなら、私たちは神様の民とされたからです。私たちは自分の義を身にまとうのではなく、イエス様の義を着せられているのです。
さらに、神様が私たちを喜んで受け入れてくださっているので、私たちは喜びをもって、大胆に神様の御前に進み出ることができるのです。
もし旧約時代の預言者たちや祭司たちがこれを目にしたとしたら、どれほど驚いたことでしょうか。
そして、あなたはどうでしょう。この恵みに、驚いているでしょうか。
