私にとって、死はまだ遠い将来のことのように思えます。
一方で、パウロがこの手紙を書いたとき、彼は自分がすぐに殺されるかもしれないと感じていました。裁判でネロが彼を釈放するだろうという確信は持っていたものの、それは決して確実ではありませんでした。
だから、パウロはこう言ったのです。
私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。(ピリピ人への手紙1:20)
生き続けようと、処刑されようと、パウロは平然としていました。パウロにとって何よりも大切だったのは、自分が生きていても、死んでも、キリストがあがめられることでした。
そのために、彼は生きている間、自らの人生を通してキリストに栄光を帰すよう努めていました。また、たとえ自分が死ぬとしても、その死によって神様に栄光をおささげしたいと願っていたのです。
私たちもまた、そのような姿勢を持つべきです。日々、私たちはキリストの栄光のために生きるよう招かれています。
それでも、その考えがまったく思い浮かばない日も少なくありません。むしろ、私たちは仕事や日常のこと、悩みばかりに心を奪われがちです。この世のことにばかり焦点を当てると、イエス様に関する思いは自然と遠のいてしまいます。
けれども、私たちはそのように生きるべきではありません。むしろ、私たちはパウロのような姿勢を取るべきなのです。
私にとって生きることはキリスト(です)。(21a)
あなたは、それを自分の口で言えるでしょうか。あるいは、あなたは他の何かのために生きているのではないでしょうか。
もしかすると、あなたは自らの死に直面しているかもしれません。その時、あなたはどんな姿勢を持つでしょうか。パウロのように、あなたはこう言えるでしょうか。
死ぬことは益です。(21b)
この世に生かされていることは神様の賜物であり、日々は私たちが神様に栄光を帰すための機会です。
それでも、パウロのように、あなたは天がはるかに良いところであると確信しているでしょうか。
そして、あなたもまた板挟みの思いを抱いているでしょうか。つまり、この世でイエス様に仕え、人々に触れたいと願う一方で、天においてイエス様と共にいたいという思いも持っているでしょうか。
もしかすると、あなたはこの人生にしがみつき、自分のために生きているのかもしれません。それゆえに、死を恐れているということはないでしょうか。
ところが、死を恐れる必要はありません。
自分のために生きることをやめ、イエス様を信じてください。
あなたの罪の赦しのために、イエス様は十字架で死んでくださいました。しかし、それだけではなく、イエス様は死に打ち勝ち、力強く復活されました。
そしてイエス様は、こう約束しておられます——「わたしが生き、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14:19)
あなたの人生をイエス様にささげるなら、あなたは本当のいのちを知ることができます。
