前回の記事では、私たちが「福音にふさわしく生活するべき」だということを学びました。でも、そもそも「福音」とは何でしょうか。
パウロは2章で、その福音をはっきりと語ります。福音は、イエス様ご自身についてのメッセージです。つまり、
キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。(6-8)
少し想像してみてください。イエス様は、神のあり方そのものを持っておられました。けれども、こうは言いませんでした。 「私は天の父と御霊と等しくあられる存在なのに、なぜ私が地上へ行き、この反抗的でみじめな民のために死ななければならないのか。」
むしろ、イエス様はご自身を空しくされました。神として栄光にふさわしいお方であり、その栄光を実際に持っておられたにもかかわらず、その栄光を手放し、人となられたのです。
さらに、イエス様はこの世に来るとき、人間の王としてではなく、貧しい家庭にお生まれになり、大工として歩まれました。
それだけでなく、神としてイエス様にはご自身の思い通りに生きる権威がありましたが、そうはされませんでした。むしろ、畏れをもってしもべの姿を取り、天の父の御心に従われました。
そして、天の父が「この世のためにあなたが死ぬ時が来た」とおっしゃったとき、イエス様はこう応えられました。「わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」
なぜ、イエス様は天の父の御心に従われたのでしょうか。それは、イエス様が天の父を深く愛しておられたからです。
その愛ゆえに、イエス様はご自身がふさわしいとされるものを捨て、十字架の上で辱めを受け、命を捧げられました。
けれども——福音の物語は、そこでは終わらないのです。
パウロは、さらに続けてこう語ります。
それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。(ピリピ人への手紙2:9-11)
天の父は、イエス様をただ復活させられただけではなく、かしらとして、また支配者として、すべてのものの上に置かれました。
そしてある日、救われたすべての人々が、ひざまずいて礼拝し、 「イエス・キリストは主です」と喜びをもって告白する時が来ます。
その日、私たちは、しみやしわ、またそのようなものが何一つない、聖く、傷のない存在として完成された、栄光に満ちたひとつの教会となり、父なる神に栄光を帰すのです。
パウロは語ります——私たちはこの福音にふさわしく生活すべきなのです。イエス様が私たちのためにこれほどまでにしてくださったのなら、私たちがその模範に従って生きることは、まことにふさわしい応答ではないでしょうか。
だからこそ、パウロはこう語ったのです。
キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。(5)
私たちはイエス様と一つにされました。ですから、イエス様の模範に従って生きるべきではないでしょうか。たとえ周囲の人々が私たちを拒んだとしても、私たちはその人たちに対して、キリストの愛とあわれみをもって応えるべきです。
もし私たちが、やがて共にイエス様を主として礼拝する日が来るのだとすれば、今この時にも、互いに愛し合い、御国のために共に働くべきではないでしょうか。
さらに、私たちは自己中心的な思いを捨て、兄弟姉妹を自分よりもすぐれた者として敬い、イエス様が私たちのためにご自身の命を捨てられたように、兄弟姉妹のために自分の命をも差し出す者とされるべきです。
あなたはどうですか。あなたは、この福音を信じておられるでしょうか。そして、その福音によって、生かされているでしょうか。
