迫害を受けるのが好きな人など、誰もいないでしょう。 また、憎まれて喜ぶ人もいないはずです。
それでも、クリスチャンとして、そうなる可能性を覚悟しておかなければなりません。 私たちが信仰に生きるなら、ある人々は私たちを憎むことがあるのです。
このようなわけで、パウロはテサロニケの人々に警告しました。
私たちの兄弟であり、キリストの福音を伝える神の同労者であるテモテを遣わしたのです。
あなたがたを信仰において強め励まし、このような苦難の中にあっても、だれも動揺することがないようにするためでした。
あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難にあうように定められているのです。
あなたがたのところにいたとき、私たちは前もって、苦難にあうようになると言っておいたのですが、あなたがたが知っているとおり、それは事実となりました。(テサロニケ人への手紙第一3:2-4)
「苦難にあうように定められている。迫害にあうように定められている。」
クリスチャンは、そんな言葉を聞きたくはないでしょう。 けれどもパウロは、その可能性についてテサロニケの人々に警告しました。
その結果、実際に迫害がやって来たとき、彼らの心はすでに備えられていたのです。 彼らの信仰は揺らぐことなく、むしろ堅く立ち続けていました。(3:6〜8)
私たちもまた、そのように歩むべきです。
でも、覚えておいてください。 神様は、私たちに「自分の力」で立つように命じておられるのではありません。 むしろ、私たちは神様の力に拠り頼まなければならないのです。
では、どのようにすれば、神様の力に頼ることができるでしょうか。 一つの方法は、みことばを読むことです。 そうすれば、自分の信仰は養われ、成長し続けるのです。
パウロは、テサロニケの人々にこう語りました。
私たちは、あなたがたの顔を見て、あなたがたの信仰で不足しているものを補うことができるようにと、夜昼、熱心に祈っています。(10)
イエス様についての知識を完全に持っている人は、誰一人いません。 だからこそ、私たちの人生においては、その知識と信仰が成長し続けるべきなのです。
それは、私たちが教会に行く理由の一つでもあります。 なぜなら、霊的な栄養を受けることによって、試練に直面するときにも、堅く立つ力が与えられるからです。
もちろん、説教を通して霊的な栄養を受けることができます。 しかし、それだけではありません。 兄弟姉妹との関係を通しても、私たちは豊かな霊的な養いを受けるのです。
神様が私たちの心に愛を注いでくださるとき、 私たちは互いに愛し合うことを学び、 教会の外にいる人々をも愛することを学んでいきます。(12)
けれども、霊的な栄養の源は、神様ご自身です。 私たちのうちに住んでおられる聖霊を通して、 神様は私たちの心を日々強めてくださいます。
だからこそ、パウロはこのように祈ったのです。
そして、あなたがたの心を強めて、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに、私たちの父である神の御前で、聖であり、責められるところのない者としてくださいますように。アーメン。(13)
私たちがイエス様のために生きるなら、 サタンは必ず、私たちに反対してきます。 それは、クリスチャンにとって当然のことなのです。
実際、パウロも、テサロニケの人々も、 そして初代教会から現代に至るまでの数えきれないクリスチャンたちも、 迫害を受けてきました。
あなたは、そのような迫害に直面する覚悟ができているでしょうか。
