「偽善者」。
日本ではどうか分かりませんが、欧米の多くの国々では、 クリスチャンはしばしば「偽善者」と呼ばれます。
残念なことですが、多くのクリスチャンたちは、その評判に値してしまっています。
パウロの時代にも、偽善的なクリスチャンたちがいました。 彼らの生活によって、イエス様の御名が汚されてしまったのです。 そのため、パウロはテサロニケの人々に、そのことについて書き送りました。
第4章でパウロは、私たちが神様を喜ばせるように、どのように生きるべきかを教えています。 前回の記事では、私たちが神様のための聖なる宮となることについて取り上げました。
現代と同じように、その時代にも性的な罪が多くありました。 だから、パウロは、彼らのからだが神様の宮であることを思い起こさせ、 その宮を汚さないようにと、性的な清さを守るように促したのです。
清さを失った生き方を選べば、私たちはこの社会に自然と溶け込んでしまいます。 けれども神様は、私たちがこの世に同化するのではなく、 その中で目立つ者として生きるように呼んでおられます。
そして、パウロはこの世の中で目立つためのもう一つの方法を示しています。 彼はこう語っています。
兄弟愛については、あなたがたに書き送る必要がありません。あなたがたこそ、互いに愛し合うことを神から教えられた人たちで、マケドニア全土のすべての兄弟たちに対して、それを実行しているからです。
兄弟たち、あなたがたに勧めます。ますます豊かにそれを行いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:9-10)
この世界の人々は、情欲についてはよく理解しています。 けれども、愛についてはあまり分かっていないため、 彼らはその一生を通して、愛を追い求め続けるのです。
だからこそ、イエス様はクリスチャンたちにこう語られました。
互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。(ヨハネ13:35)
私たちがキリストの教会として、互いに愛し合うとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。
何年経っても、クリスチャンの夫婦がなお愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。
性格も背景も異なる人々が、教会で互いに愛し合っていると、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。
クリスチャンたちが、苦しんでいる人々に愛をもって触れるとき、 ノンクリスチャンたちは心を奪われます。
なぜでしょうか。 それは、クリスチャンたちが、ノンクリスチャンたちの持たないものを持っているからです。
そういうわけで、パウロはテサロニケの人々にこう語っています。
「あなたがたが互いに愛し合っていることは、素晴らしいことです。 けれども、さらに豊かに愛し合いなさい。 あなたがたの愛を通して、あなたがたの光を輝かせなさい。」
それでも、テサロニケの教会には、ある問題がありました。
主がすぐに戻られると信じていた一部の人々は、 「なぜ働く必要があるのか」と考え、 働かずに、他のクリスチャンたちから食べ物やお金を受け取るようになっていたのです。
まるでヒルのように振る舞いながら、 彼らはその生き方によって、イエス様の御名を汚してしまっていました。
だから、パウロは彼らにこう語ったのです。
また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。
外の人々に対して品位をもって歩み、だれの世話にもならずに生活するためです。(11-12)
ヒルのような生き方では、私たちはイエス様の光を輝かせることはできません。 ヒルを好む人など、誰もいないのです。
それだけではなく、第2テサロニケによれば、あるクリスチャンたちは、 おせっかいばかりしていました。 その姿を見て、周りの人々は「本当にあれがクリスチャンなのか」と思ったのです。
だから、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。 「働きなさい。ヒルのようになってはいけません。 きちんと働けば、周りのノンクリスチャンたちはあなたを尊敬するようになるでしょう。」
あなたはどうでしょうか。 人々があなたを見たとき、そこにどんな人を見出すでしょうか。
キリストの愛に満ちた人でしょうか。 誠実に働く、勤勉な人でしょうか。
あなたは今、良い理由で目立っているでしょうか。
