「希望は、生きている者のためです。死者は希望を持っていません。」
古代ギリシャの詩人がそう語りました。 パウロの時代、多くの人々はそのように死を受けとめていたのです。
実際、私が多くの日本人と話すとき、彼らもほとんど同じようなことを言います。 死後について、希望を持っていないのです。 彼らにとって、この人生こそがすべてなのです。
周囲の影響を受けて、テサロニケの人々もまた、死後の希望を十分に持っていなかったようです。 そして、信仰のゆえに殺されるクリスチャンたちの姿を見て、彼らは問いを抱いたのです。
「イエス様がこの世に帰ってこられるとき、 すでに死んだクリスチャンたちはどうなるのか。 彼らはその日の喜びと希望を取り損ねてしまうのだろうか。」
しかし、パウロは彼らにこう語ったのです。
眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです。
イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです。
私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません。
すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。
そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。
こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい。(テサロニケ人への手紙第一4:13-18)
どうして、私たちは死後の希望を持つことができるのでしょうか。 それは、イエス様ご自身が死んで、よみがえられたからです。 イエス様は私たちにこう語られました。
わたしが生きるので、あなたがたも生きる。(ヨハネ14:19)
また、パウロによれば、イエス様がこの世に戻られるとき、 すでに死んだ人々は復活し、空中でイエス様と会うのです。
さらにこの手紙の中で、パウロは、私たちが死ぬとすぐに主のみもとに行くと教えています。(第一テサロニケ1:23)
また、ルカの福音書では、イエス様が悔い改めた犯罪人にこう約束されました。 「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
ですから、イエス様が再び来られるとき、 死んだクリスチャンたちの遺灰や骨はよみがえり、 新しいからだに変えられて、天にいる霊とひとつにされます。
そのあと、生きているクリスチャンたちも引き上げられ、 そのからだも変えられて、空中で主と出会うのです。
その新しいからだは、朽ちることのない、死を超えたからだなのです。(第一コリント15:51ー53)
ところで、私は、反キリストが現れるとき、 クリスチャンたちはまだこの世に存在していると考えています。 この考えが間違っているなら、むしろ嬉しいのですが、 聖書を読むかぎり、それが私の結論です。
私がそう考える理由の一つは、「主と会う」という表現に、 大切な方を迎えに出て、その方を町にお連れするという意味が含まれているからです。
つまり、パウロの描写はこうです: クリスチャンたちは空中で主を迎え、 地上でイエス様をお守りしながらお連れするというものです。
そのとき、イエス様はこの世界を千年間統治されます。 そしてその後、最後の戦いにおいてサタンを打ち倒し、 私たちは永遠に主とともに生きることになるのです。
これこそが、私たちの希望です。 この希望を、希望を持たない人々にこそ分かち合うべきなのです。
兄弟姉妹が苦しみ、もう限界だと感じるとき、 この希望のことばで励ましましょう。
私たちの苦しみは永遠に続くものではありません。 イエス様は再びこの世に来られ、正義をもたらしてくださいます。
だから、この希望を胸に抱き、安心して歩みましょう。
