私は前にも述べましたが、クリスチャンたちは反キリストを見ることになり、迫害を受けると信じています。
そして私は、イエス様が反キリストを滅ぼすために来られるまでは、ご自身の民を集められないと信じています。
どうして私がそう信じているのでしょうか。この箇所の言葉が、その理由の一つです。
一部のクリスチャンたちは、反キリストが現れる前に、イエス様がご自身の民を集めて天に連れて行かれると考えています。
彼らの主張によれば、もしキリストの再臨に先立って、ある「しるし」が成就しなければならないのだとすれば、「イエス様がいつでも来られる」とは言えなくなってしまう、というのです。
だから彼らの理解では、その「しるし」を見るまでは、私たちは特に準備をしなくてもよい、ということになります。
私は、その考えに対して二つの答えを持っています。
一つ目は、イエス様がご自身の民を集められる前に、いくつもの出来事が起こらなくてはなりませんが、それでもイエス様は、いつでもあなたを天に連れて行かれるかもしれません。
イエス様は、あなたに明日のいのちを約束しておられません。あなたは交通事故で死ぬかもしれません。また、犯罪者によって命を奪われるかもしれません。
そうしたことが起こったとき、あなたは何らかの備えをしているでしょうか。もしかしたら、イエス様のたとえ話に出てくるように、神様が突然あなたを裁くために呼ばれるとき、あなたは何の備えもしていないかもしれません。(ルカ12:13〜21)
二つ目は、その議論がパウロの言葉と矛盾しているということです。パウロ自身がこう言いました。「イエス様はまだ来られていません。その前にあるしるしが成就されなくてはなりません。」
パウロの時代から今日に至るまで、何かが変わったでしょうか。何も変わっていません。イエス様はまだ来られていません。そして、私たちはイエス様がいつ来られるのかを知りません。
ですから、もしパウロが今も生きていたら、私たちに同じように語るはずです。「イエス様はまだ来られていません。まだ、あるしるしが成就されなくてはなりません。」
もちろん、クリスチャンが反キリストを見ることは、不穏なことです。特にこれまで、私たちクリスチャンが反キリストを見ることは決してないと信じていた人々にとっては、そのような話は聞きたくないと思うかもしれません。
しかし、私たちには希望があります。
パウロによれば、酷い苦難の時、つまり反キリストの時代には、この世の人々が神様の御怒りを受けますが、私たちはその御怒りを受けることはありません(第一テサロニケ5:9)。
また、ペテロはこう語っています。
主はこのようにされたのですから、敬虔な者たちを試練から救い出し、正しくない者たちを処罰し、裁きの日まで閉じ込めておくことを、心得ておられるのです。(第二ペテロ2:9も別訳、脚注を調べてください)。
さらに、パウロはテサロニケの人々にこう語りました。
しかし、主に愛されている兄弟たち。私たちはあなたがたのことについて、いつも神に感謝しなければなりません。
神が、御霊による聖別と、真理に対する信仰によって、あなたがたを初穂として救いに選ばれたからです。
そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。(テサロニケ人への手紙第二2:13-14)
要するに、あなたは試練に遭うかもしれませんが、神様がすでにあなたを選んでおられるので、必ず救ってくださいます。そして、あなたはイエス様の栄光にあずかるのです。
そういうわけで、パウロはこう言います。
ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。
どうか、私たちの主イエス・キリストと、私たちの父なる神、すなわち、私たちを愛し、永遠の慰めとすばらしい望みを恵みによって与えてくださった方ご自身が、あなたがたの心を慰め、強めて、あらゆる良いわざとことばに進ませてくださいますように。(15-17)
私たちがどのようなことを経験しても、たとえ反キリストに直面するとしても、パウロは私たちにこう語っています。
「あなたが受けた真理にしっかりとしがみつきなさい。何よりも、イエス様にしがみつきなさい。なぜなら、最も暗いときにこそ、イエス様は私たちに励ましと希望と力を与えてくださるからです。」
実のところ、もし私の考えが間違っていて、私たちが反キリストに会う必要がないのだとすれば、それは私にとって本当に喜ばしいことです。
しかし、もし私たちが反キリストを見ることになるのなら、イエス様にしがみつきましょう。イエス様は、私たちがその試練を乗り越えることができるように助けてくださいます。
