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テサロニケ人への手紙第二

試練に直面するとき

テサロニケ人への手紙第二3:1-5

このブログで私は何度も語ってきましたが、神様は私たちに安楽な人生を約束されているわけではありません。パウロはまさに、そのような人生とはほど遠い歩みをしました。

パウロは福音のために鞭打たれ、迫害を受けました。海で遭難も経験し、耐えがたいほどの重圧にさらされました。そして最終的には、キリストのために命を落としたのです。

それでもパウロは、歩みを止めませんでした。どうして彼は、そこまでして耐え抜くことができたのでしょうか。

パウロは、テサロニケの人々にこう願い出ました。

最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。

主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。

また、私たちが、ひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです。(テサロニケ人への手紙第二3:1-2)

おそらく、いくつかの理由があったからこそ、パウロは歩みを止めずに進み続けることができたのでしょう。

一つ目は、自らの苦しみの実を、目に見える形で見ることができたことです。すなわち、テサロニケの人々やピリピの人々を通して、神様が確かに働いておられることを見たのです。

そのことによって、パウロは自分の苦労と苦難が決して無駄ではないと確信し、励まされました。

二つ目は、パウロが人々の祈りに支えられていたことです。彼は決して「私は大丈夫、自分の力でこの試練を乗り越えられます」とは言いませんでした。

むしろ彼は、繰り返し願い求めました。「私のために祈ってください。私の周りには災いがあり、悪意ある者たちがいるのですから。」

三つ目は、敵対する者たちがいたとしても、主が真実であり、良い方であるとパウロが深く理解していたことです。パウロはこう語っています。

すべての人に信仰があるわけではないからです。しかし、主は真実な方です。あなたがたを強くし悪い者から守ってくださいます。(2-3)

そしてパウロは、テサロニケの人々を励まして、こう語りました。

私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています。(4)

最後に、パウロは、彼らが試練の中でもしっかりと立ち続けることができるように、その鍵を示しました。彼はこう祈ったのです。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(5)

多くの場合、私たちは試練の中で怒りや苦々しさに陥り、「神様に見捨てられたのではないか」と感じてしまいます。そして、自分がかわいそうでならず、周りの人たちにも理解されていないと思ってしまうのです。

しかしパウロは、こう語ります。試練のゆえに神様から離れないでください。むしろ、その試練の中でこそ、神様に近づいていきましょう。神様のもとへ駆け寄りましょう。

さらに、パウロは私たちにこう勧めます。

「キリストを覚えなさい。イエス様があなたのために何を耐えられたのかを思い起こしなさい。

イエス様は、愛しておられた人々に裏切られ、見捨てられ、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられました。それでもイエス様は、すべてを耐え抜かれました。

なぜでしょうか。それは、イエス様があなたを愛しておられるからです。」

だから、「もう耐えられない」と思うときには、イエス様を仰ぎ見ましょう。イエス様はあなたの痛みをご存じです。あなたを愛しておられるのです。あなたは決して、見捨てられていません。

そして、へブル書の著者はこう語りました。

信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。(へブル12:2-3)

また、

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。

ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16)

だから、もしあなたが見捨てられ、「もう終わった」と感じているなら、私もパウロのように、あなたのために祈りたいと願います。

主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように。(第二テサロニケ3:5)

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