前回の記事では、教会における女性たちのリーダーシップに関するパウロの教えについて取り上げました。その中で、パウロはこう語っています。
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。(テモテへの手紙第一2:12)
前回の記事でお伝えしたように、ある解釈者たちは、パウロの指示がエペソにいた女性たちに限定されていると考えています。
しかし一方で、他の解釈者たちは、パウロの指示はすべての教会に適用されるべきだと主張しています。
では、その立場の根拠は何でしょうか。
まず1つ目の根拠は、第3章の記述です。パウロが教会の監督(現代における主任牧師や長老)について語る際、その任務を男性に限定しているように見える、という点です。
そこには、女性がその働きに加わる可能性についての示唆は見られません。実際、パウロは「監督の妻たち」については言及しますが、「監督の夫たち」には一切触れていません(比較対象としては、5章9節を参照してください)。
さらに、この立場の解釈者たちは、第13〜14節にも注目します。
アダムが初めに造られ、それからエバが造られたからです。そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです。(13-14)
この議論の中心は、神様がアダムとエバを同時に造られなかった、という点にあります。神様はまずアダムを造り、次にエバを造られました。つまり、アダムが家庭におけるリーダーとして召されていたことを示しているのです。
そして、神様はアダムが使命を果たすことができるように、彼にエバを「助け手」として与えてくださったのです(創世記2:18)。
第一コリント11章3節、および7〜10節では、パウロがそのような創造の秩序について教えています。
また、パウロは夫婦関係について語る際、夫にリーダーシップを委ねられていることを明確にしています(エペソ5章参照)。
もちろん、ある意味で夫婦は互いに従い合うべきですが、パウロによれば、妻は主に従うように、夫にも従うべきだと語られています。なお、彼はそのような従順の命令を夫側には与えていません。
そのため、この立場の解釈者たちは、家庭における男性のリーダーシップの原則を、教会におけるリーダーシップにも当てはめます。彼らによれば、夫が自分の家族を導くように、男性は神の家族である教会を導くべきだというのです。
また、彼らは13〜14節におけるパウロの要点として、アダムがエバを正しく導かなかったことにより、エバが惑わされて罪を犯し、その影響でアダム自身も罪に陥った、という理解を提示します。
この立場についてさらに詳しく論じることもできますが、ここではこれが彼らの中心的な議論であると押さえておきましょう。
では、なぜクリスチャンたちはこのパッセージの意味についてこれほど議論するのでしょうか。
それは、パウロがアダムとエバの物語を引用するときに、彼の意図をテモテが当然理解しているものとして語っているからです。
パウロは次のようなことは語っていません。
「エバはアダムから十分に教えられていませんでした。だから彼女は罪を犯してしまったのです。同じように、エペソの女性たちもまだ十分に教えられていないので、しばらくの間、彼女たちが教えたり、男性を導いたりすることは許可しません。」
一方で、パウロはこうも語っていません。「アダムにはリーダーシップの務めがありました。したがって、彼は教会のリーダーシップの模範です。ゆえに、男性たちは教会を導くべきなのです。」
このように、もしこの問題についての議論が教会の一致を脅かすと判断したならば、私はその議論を続けることを避けます。この問題においては、私は教会の方針に従います。
明日、このテーマについての結論をまとめる予定です。
