この箇所は、すべてのクリスチャンに向けられたものではありません。なぜなら、パウロの言葉は「牧師になろうとする人々」に対して語られているからです。
私自身、牧師として召されているとは思っていません。もちろん、いつか神様が私を牧師として召される可能性はありますが、少なくとも今のところ、私はそのような御声を受け取ってはいません。
とはいえ、若い頃の私は、神様が私を宣教師として召されるとは到底思っていませんでした。それでも、今では約25年間、日本で宣教師として仕えています。
いずれにせよ、もし「牧師になりたい」と願っているなら、この箇所は非常に重要です。また、教会が新しい牧師を選ぶときにも、この箇所を丁寧に読むべきです。
なぜなら、パウロは牧師や長老の資格について語っているからです。ただし、パウロは「牧師」や「長老」という言葉ではなく、「監督」という語を用いています。
パウロは次のように記しています。
次のことばは真実です。「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」(テモテへの手紙第一3:1)
私の心を打ったのは、「もし、だれかが監督の職に就きたいと思うなら」という言葉でした。
私自身は、それを望んだことはありません。けれども、神様は特定の人々の心に、その願いを与えられます。パウロは、そうした人々に向かってこう語っています。「それを望むなら、それは素晴らしいことです。」
しかし、その後パウロは、牧師としての資格について語り始めます。そして私たちが注目すべきことは、パウロが牧師の学歴や神学校の訓練について、まったく触れていないという点です。むしろ、彼が最初に語っているのは、その人の性格です。
「あなたは牧師になりたいと願っていますか。では、あなたはどんな性格を持っているでしょうか。私は、まずそのことを知りたいのです。」
あなたには、非難されるところがないでしょうか。隠れた罪を抱えてはいないでしょうか。周囲の人々が、あなたを正当に咎めることができるような点はないでしょうか。あなたは、人々の前に立つにふさわしい、良い模範となっているでしょうか。
あなたは妻に対して忠実でしょうか。結婚の誓約を、誠実に守っているでしょうか。もしあなたが妻に忠実でないとしたら、どうして私たちは、あなたが神様とその教会に忠実であると信じることができるでしょうか。
あなたは怒りを適切に抑えることができるでしょうか。それとも、すぐに感情的になってしまう傾向があるでしょうか。
あなたには自制心が備わっているでしょうか。食生活、アルコール、時間やお金の管理、異性との関係において、自制をもって歩んでいるでしょうか。
あなたの生活は、周囲の人々から尊敬されるようなものとなっているでしょうか。教会の内でも外でも、あなたには良い評判があるでしょうか。
あなたは人をよくもてなしますか。時間やお金を、気前よく与えているでしょうか。
あなたの妻や子ども、あるいは他の人があなたを怒らせるとき、 あなたはどのように反応するでしょうか。暴力に訴えるようなことはないでしょうか。それとも、柔和な態度を保つことができるでしょうか。
あなたは、できる限り平和を保とうとしているでしょうか。それとも、すぐに争ってしまう傾向があるでしょうか。相手の怒りをわざとあおることに、どこか快感を覚えているということはないでしょうか。
あなたはお金に執着してはいないでしょうか。あなたの神は、富なのでしょうか。世が定義する「出世」や成功を追い求めているのでしょうか。それとも、どのような境遇にあっても、あなたの心には満ち足りる思いがあるでしょうか(ピリピ4:11-13)。
あなたは、自分の家庭をきちんと治めているでしょうか。あなたの妻や子どもたちは、あなたを尊敬しているでしょうか。
これらのことは、あなたの性格をよく表しています。ですから、もしあなたがまだ信仰の若いクリスチャンであるなら、牧師になるという夢を、もう少し先に延ばした方がよいかもしれません。
牧師を志すなら、謙遜な態度はきわめて重要です。多くの牧師たちが、自らのプライドによって大きな失敗をしてきました。特に、若いクリスチャンがその罠に陥る危険性は少なくありません。
そして、これまで述べたような資質を備えているとしても、もう一つの要件が必要です。それは、「教える賜物」です。たとえ聖書について深く学んでいたとしても、それを人々にわかりやすく教えることができるでしょうか。
しかし、もう一度申し上げます。たとえ教える賜物を持っていたとしても、性格にふさわしさがなければ、牧師になる資格が整っているとは言えないでしょう。
あなたは牧師になりたいと願っていますか。では、あなたはどのような性格を持っているでしょうか。
