以前の記事でも述べましたが、パウロの時代には、外見だけの敬虔を教える人々がいました。その敬虔は、特別な修行や、想像上の物語や系図に基づいたものでした。
しかしパウロは、テモテにはっきりとこう命じています。「そのようなむなしい教えを拒み、むしろ本当に重要なことに心を向けなさい。」
具体的に、パウロは次のように語っています。
俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい。
肉体の鍛錬も少しは有益ですが、今のいのちと来たるべきいのちを約束する敬虔は、すべてに有益です。
このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。
あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。(テモテへの手紙第一4:7-11)
パウロにとって最も重要なのは、私たちが神様の召しに従って歩むことです。神様は、ご自身のご計画のゆえに、私たちを救ってくださいました。それゆえ、私たちはそのご計画にかなって生きるべきなのです。
では、私たちはどのような者になるべきでしょうか。それは、神様に似た者となることです。すなわち、神様のご性質を身につけていくということです。これこそが、「敬虔」が意味するところなのです。
パウロによれば、敬虔はこの世においても、来たるべき御国においても、有益なものです。なぜなら、敬虔は人生において最も大切な二つのことに深く関わるからです。すなわち、神様との関係と、周囲の人々との関係です。
私たちが罪に陥るとき、その罪はこれらの関係を壊してしまうのです。
それでも私たちは、決して忘れてはならない大切なことがあります。敬虔は、私たち自身の努力だけで成り立つものではないということです。
確かに、パウロは「敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい」と命じました。
しかし、真に敬虔な者となるためには、救い主である生ける神に望みを置かなければなりません。すなわち、私たちは聖霊を通して、神様が私たちを御子の姿に変えてくださるという希望に生きているのです。
そして、敬虔を目指して自分を鍛えるとき、最も大切なのは、私たちが天の父の声に聞き従うことです。私たちの言葉、態度、愛、信仰、純潔において、天の父の導きに従って歩むべきなのです。
そのとき、神様は御言葉に従う力を、私たちに豊かに与えてくださいます。
あなたはどうでしょうか。あなたは、自分のトレーナーに従って生きていますか。
