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テトスへの手紙

罪の余裕もない。プライドの余裕もない。

テトスへの手紙3章

前回の記事で、テトスの3章の最初の部分について話しましたが、今日は3章全体をまとめたいと思います。

前回の記事で私は言いましたが、1節ではパウロは私たちが権威者たちに従うべきだと教えます。そして、2節ではパウロはこう言います。

また、だれも中傷せず、争わず、柔和で、すべての人にあくまで礼儀正しい者となるようにしなさい。(テトスへの手紙3:2)

時々、ノン・クリスチャンたちの行為や態度のために、私たちが彼らを愛さずに裁くのは簡単です。でも、私たちは彼らを中傷せず、むしろ柔和な態度を持ち、礼儀正しい態度を取るべきです。

相手の弱さと失敗を見るとき、私たちが柔和な態度、また、謙虚な態度を取ることはとても大切だと思います。なぜでしょうか。

私たちも以前は、愚かで、不従順で、迷っていた者であり、いろいろな欲望と快楽の奴隷になり、悪意とねたみのうちに生活し、人から憎まれ、互いに憎み合う者でした。

しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。

神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みを抱く相続人となるためでした。(3-7)

要するに、クリスチャンになる前に、私たちは彼らと同じでした。私たちも愚かなことをしていました。私たちも罪の奴隷であり、罪を犯していました。

私たちが周りの人々よりも良い人であったために神様が私たちを救ったわけではありません。むしろ、神様の憐れみによって、神様は私たちを救ってくださいました。

私たちは神様から何も値しませんでしたが、神様はイエス様を送り、ご自身の愛と恵みを与えてくださいました。

そして、神様は聖霊を私たちに豊かに注いでくださいました。

聖霊によって、私たちは新しく造られた者となりました。

そのため、今、私たちは神様の目には義人とされ、神様の養子として永遠の命の望みを持っているのです。

そういうわけで、私たちにはプライドを持つ余裕がありません。私たちは周りの人々を不潔なものとして見下してはいけません。むしろ、神様が私たちを愛してくださったように、私たちは周りの人々に愛を示さなければなりません。

さらに、クリスチャンとして、私たちは故意に罪を犯してはいけません。

私たちは変わったのです。私たちはイエス様の血によって洗われました。私たちは新しく造られた者となりました。どうして私たちは自分を滅ぼしていた罪に戻りたいと思うでしょうか。

パウロはこう言いました。

このことばは真実です。私は、あなたがこれらのことを、確信をもって語るように願っています。神を信じるようになった人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであり、人々に有益です。(8)

また、

私たちの仲間も、実を結ばない者にならないように、差し迫った必要に備えて、良いわざに励むように教えられなければなりません。(14)

だから、私たちは自分の義に関するプライドを持つ余裕はないけれど、罪にふける余裕もないのです。

パウロの時代でも、その二つの問題に直面していました。あるクリスチャンたちは、律法主義的な態度を持って、自分の義を誇ったり、ユダヤ人の身分を誇ったりしていました。

その反面、自分勝手な人生を送っても良いと主張する人もいました。(9)

でも、パウロは彼らに関してテトスにこう言いました。

分派を作る者は、一、二度訓戒した後、除名しなさい。あなたも知っているとおり、このような人はゆがんでいて、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。(10-11)

あなたはどうでしょうか。自分の義を誇って、周りの人々を見下しているでしょうか。

あなたは身分や行為によって救われたのではなく、神様の恵みと御業によって救われたことを忘れてはいけません。

自分の罪にふけっているでしょうか。

あなたは罪から自由にされるために救われました。神様はあなたを新しく造られた者としました。神様の望みは、あなたがこの世の偽物を追い求めず、本当の命と喜びを見つけることです。

あなたはどうしますか。

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