どうして、この世はこれほどまでに混乱し、壊れてしまったのでしょうか。
この問いに向き合わないかぎり、私たちはクリスマスの意味を真に語ることはできません。
今日の聖書箇所で、この手紙の著者は、この世界の混乱の根本にある問題を明らかにしています。
彼によれば、この世がやがて新しくされるとき、それを治めるのは天使ではなく、人間なのです(へブル人への手紙2:5)。
その驚くべき真理に触れ、著者はまるで詩編の詩人のように、主を賛美せずにはいられません。
人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。
あなたがこれを顧みてくださるとは。あなたは、人を御使いよりわずかの間低いものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ、万物を彼の足の下に置かれました。(へブル人への手紙2:6-8)
この箇所で詩編の詩人も、この手紙の著者も、イエス様についてではなく、人間について語っています。
彼らが驚いているのは、人間がもともと地のちりで造られた存在であり、今もなお、天使よりわずかの間低い者とされているにもかかわらず、やがて栄光と誉れの冠をいただき、すべてのもの(天使たちをも含む)を治めるようになる、ということです。
使徒パウロによれば、ある日、私たちは天使たちさえ裁くことになるのです(第一コリント6:3)。
神様がこの世を創造された初めから、それはご自身のご計画でした。
そのため、神様がアダムとエバを造られたとき、こう言われました。
生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。(創世記1:28)
そういうわけで、この手紙の著者はこう語っています。
神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。(8b)
しかし、それは今の私たちの現実なのでしょうか。
この手紙の著者は、続けてこう言います。
それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません。(8c)
どうしてなのでしょうか。
この世の根本的な問題――それは「罪」です。
罪によって、この世は堕落しました。
罪によって、神様との私たちの関係は壊れました。
罪によって、この世界そのものが壊れてしまいました。
罪によって、私たち自身も壊れた存在となってしまいました。
罪によって、災害や病、そして死がこの世に入り込んできたのです。
だからこそ、イエス様はこの世に来られなければなりませんでした。
そして、この手紙の著者は、続けてこう言います。
ただ、御使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。
イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(9)
イエス様は天を離れ、人となられました。
イエス様は天使よりも、しばらくの間低くされ、私たちの間を歩まれました。そのおからだは死すべきものであったため、病を患われることもあり、やがて十字架で死なれたのです。
けれども、その死を通して、イエス様は私たちの罪のために代価を支払ってくださいました。
そして、イエス様は栄光と誉れの冠を受けられました。救いの「指導者」、あるいは「先駆者」(10節、「創始者」の別訳)となられたのです。
イエス様は私たちに先立ってこの世に来られ、完全な人生を生き、十字架の苦しみを受け、私たちのために死んでくださいました。
そのゆえに、私たちはイエス様が開いてくださった救いの道を歩むことができるのです。
私たちがその道を造る必要はありません。その道はすでに整えられました。イエス様が、私たちのために労してくださったからです。
では、このことを振り返ってみましょう。
なぜ、イエス様は2,000年前、この世に来られたのでしょうか。
そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。
それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。(14-15)
私たちは、罪と死の力から自由にされたにとどまらず、神様が初めからご計画なさっていたとおりに、イエス様の共同相続人として、栄光と誉れの冠を受け、イエス様と共にこの世を治めるようにされているのです。
これこそが、クリスマスの意味です。
ですから、私たちは2,000年前に神様がなさったことだけでなく、今この瞬間になさっていることをも感謝しましょう。そして、将来なさろうとしていることにも、心から感謝をささげましょう。
