へブル人への手紙の主なテーマの一つは、イエス様の偉大さです。
第1〜2章では、イエス様が預言者たちや天使たちよりも優れたお方であることが示されています。第3章では、モーセよりも、そして第4章では、ヨシュアよりも優れておられることが語られています。
けれども、イエス様の偉大さを考えるとき、私たちは、非常に大切な真理を覚えておく必要があります。
それは、かつて天使たちや預言者たちが神様の言葉を語ったとき、人々がそのことばに対して責任を問われた、ということです。
もしイエス様が、天使たちや預言者たちよりも優れたお方であるなら、私たちはなおさら、イエス様のことばに従うべきなのです。
だから、この手紙の著者は、こう語っています。
こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。
御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。
この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。
そのうえ神も、しるしと不思議と様々な力あるわざにより、また、みこころにしたがって聖霊が分け与えてくださる賜物によって、救いを証ししてくださいました。(ヘブル人への手紙2:1-4)
この手紙の著者は、「語られたみことば」として、モーセを通して与えられた律法に言及しているようです(申命記33章2節、使徒の働き7章53節、ガラテヤ人への手紙3章19節)。
その律法に従わなければ、人々は裁かれました。けれども、その律法を語ったのはイエス様ではなく、天使たちでした。
ところが今や、イエス様ご自身が、ご自分の口から福音を語られました。それだけでなく、イエス様は使徒たちを通してその福音を宣べ伝えられました。
そして神様は、しるしと不思議、さまざまな力あるわざによって、そのメッセージが真実であることをあかしされました。
さらに聖霊様も、御心にしたがってクリスチャンに賜物を与え、その福音が神からのものであることをあかしされました。
天使ではなく、父なる神、御子なる神、聖霊なる神ご自身が福音をあかししておられるとするならば、私たちがその福音に対して責任を問われることは、なおさらのことです。
もし三位一体の神ご自身がこの福音をあかしされたのなら、私たちがそれを無視するならば、必ず裁きを免れることはできません。
そして、この手紙の著者は、イエス様をモーセと比較します。モーセは偉大な指導者であり、神様は彼を通してイスラエルの民をエジプトから救い出し、律法を与えられました。
それにもかかわらず、著者はこう語っています。
家よりも、家を建てる人が大いなる栄誉を持つのと同じように、イエスはモーセよりも大いなる栄光を受けるにふさわしいとされました。
家はそれぞれだれかが建てるのですが、すべてのものを造られたのは神です。モーセは、後に語られることを証しするために、神の家全体の中でしもべとして忠実でした。
しかしキリストは、御子として神の家を治めることに忠実でした。そして、私たちが神の家です。もし確信と、希望による誇りを持ち続けさえすれば、そうなのです。(3:3-6)
著者によれば、モーセは忠実なしもべでしたが、あくまでもしもべに過ぎませんでした。それでも、イスラエルの民はモーセを通して与えられた律法に従わなくてはなりませんでした。
ましてや、イエス様が神の御子であり、神の家を建てられたお方であるならば、私たちがイエス様に従うべきことは、なおさら明らかです。
ですから、私たちはイエス様が告げられた救いの福音を無視してはなりません。私たちは別の裁判所に訴えることなどできないのです。イエス様こそ、最終的な裁きを下される裁判官です。
だから、著者はこう語っているのです。
ですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちが告白する、使徒であり大祭司であるイエスのことを考えなさい。(3:1)
あなたはどうでしょうか。あなたは福音を軽く扱おうとしているのではありませんか。そのメッセージを無視しようとしてはいませんか。
そのメッセージがあなたに気に入るかどうかにかかわらず、あなたは福音によって裁かれるのです。
だから、まだ時が与えられている今、福音を信じ、受け入れてください。そうすれば、あなたはいのちを知ることになります。
しかし、福音を拒むなら、あなたは裁かれ、永遠の死に至るのです。
