あなたの人生が、全世界の前にさらけ出されたとしたら、あなたはどう感じるでしょうか。もし人々が、あなたの失敗や罪をすべて見ることができたとしたら、どう感じるでしょうか。
では、少し想像してみてください。裁きの日に、あなたは神様のみ前に立ち、あなたの人生について書かれた書が開かれ、神様があなたにこう仰るのです──「あなたの人生について申し開きをしなさい。」
へブル人への手紙の著者は、こう語っています。
ですから、だれも、あの不従順の悪い例に倣って落伍しないように、この安息に入るように努めようではありませんか。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄を分けるまでに刺し貫き、心の思いやはかりごとを見分けることができます。
神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。(ヘブル人への手紙4:11-13)
それは、恐ろしいことです。私たちの行為だけでなく、心の思いやはかりごとまでもが、すべてさらけ出されるのです。裁きの日には、神様の前に隠せるものなど何一つありません。それを思うと、確かに恐れを覚えることでしょう。
しかし、それにもかかわらず、私たちは大胆に神様に近づくことができるのです。なぜでしょうか。それは、イエス様との関係があるからです。
著者は、こう続けます。
さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。(4:14-15)
これまでに学んできたのは、イエス様が私たちの先駆者となり、救いへの道を切り開いてくださったということです。
それだけではなく、イエス様は私たちに先立って天に昇られ、天の父なる神の御座の前で、今もなお私たちのためにとりなしておられます。
父なる神は、御子イエスの御顔を見るとき、喜ばれます。地上の裁判官の中には、弁護士と敵対関係を持つ者もいます。しかし、天の父ご自身が、イエス様を私たちの弁護士として、私たちの大祭司として任命されたのです(5:4ー6)。
それだけではありません。イエス様は、私たち一人ひとりのことを深く理解しておられるので、憐れみに満ちた心で、とりなしをしてくださいます。
イエス様は、誘惑の激しさをよくご存じです。また、この壊れた世界の中で、神の御心に従って生きることの難しさを、身をもって経験されたのです。
イエス様は、この地上で生きておられた間、大きな叫び声と涙をもって祈りをささげられました。
ゲッセマネにおいては、イエス様の汗が血のしずくのように地に落ちました。なぜなら、天の父の御心に従うことは、深い苦しみを伴っていたからです。イエス様はその苦しみを、身をもってご存じなのです。
それでもイエス様は、完全に天の父に従い、十字架にまで進まれ、死に至られました。
だからこそ、今、イエス様は私たちにとって救いそのものとなってくださったのです。私たちに求められているのは、ただ信仰の道を歩むことだけです(5:7ー10)。
そして私たちがつまずき、羊のようにさまよい、愚かな行動を取るとき、イエス様は優しく私たちを扱い、引き上げて、正しい道へと導いてくださいます(5:2ー3)。
だから、著者はこう語っています。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(4:16)
あなたは、その大胆さを持っているでしょうか。もしかすると、神様があなたを見下し、罰したいと願っておられるのではないかと感じているかもしれません。
けれども、そのような恐れは捨てましょう。イエス様は、あなたをかばっておられるのです。
イエス様は、あなたの罰をすでに受けてくださいました。神様はあなたを罰したいとは思っておられません。むしろ、神様はあなたを憐れみたいと願い、恵みを与えたいと願っておられます。
ですから、天の父のもとへ近づきましょう。神様はあなたを愛しておられ、ご自分の愛する子どもとして受け入れてくださるのです。
