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ヘブル人への手紙

真の成熟

へブル人への手紙5:11-6:3

あるクリスチャンたちは、自分の信仰が成長することを願い、単に福音の初歩だけでなく、聖書のより深い真理を学びたいと望んでいます。

けれども、彼らには一つ、自らに問いかけるべきことがあります。それは──「私の心は、その備えができているだろうか」ということです。

この手紙を読んだ人々の心は、まだその備えが整っていなかったようです。

そのため、この著者は彼らにこう語ったのです。

このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。

あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。

あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています。(ヘブル人への手紙5:11-12)

「乳」とは何でしょうか。6章において、著者はその意味を明らかにしています。それは、罪を悔い改めること、神様に対する信仰、バプテスマ、手を置く儀式(特に聖霊を受けること)、復活、そして裁きの日などのことです。

これらは、クリスチャンとしての初歩的な真理です。もちろん、私たちはそれらを知らなければなりません。けれども、それらはあくまでも出発点に過ぎません。

その道の終着点は何でしょうか。それは、健全で完全な歩みです。

しかし、そのような人生を得るためには、ただ聖書を聞くだけでなく、それを私たちの生活に適用しなければなりません。

私たちは、神様が私たちを愛し、最善を願っておられることを信じなければなりません。そして、自分が罪に対して死に、イエス様にあって新しく造られた者として生きるように召されていることを信じるべきです。

私たちの行いや思い、そして人生のすべてが神様の愛に彩られるほどに、私たちは神様を愛し、神様の救いの御業を心から感謝すべきです。

簡単に言えば、私たちのうちに働いてくださっている聖霊様の力によって、私たちは罪を捨て、義を身にまとい、日々ますますイエス様に似た者とされるべきです。

それこそが、真の成熟です。

成熟とは、単に神様の深い真理を知っていることではありません。成熟とは、人生のあらゆる面においてイエス様に似た者として生きることです。

言い換えれば、私たちは健全な人、完全な人へと成長していくのです。すなわち、神様が初めから計画しておられたとおりの歩みをすることです。

けれども、未成熟な人たちの内面はまだ不完全なままです。彼らは健全な人生の意味すらも理解できません。この手紙の著者は、そのような人々について、こう語っています。

乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。(13)

これに対して、著者は成熟した人について、こう語っています。

固い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。(14)

真に成熟した人は、御言葉を聞いて実践します。そして、その人は御言葉を実践すればするほど、「健全な人生」の意味が分かるようになります。何が善であり、何が悪であるかを見分けることができるようになるのです。

しかし、多くのクリスチャンは学ぶのが遅く、聞くことに対して鈍くなっています。

心はどのように鈍くなるのでしょうか。

たとえば、私たちが御言葉を聞いて心を動かされたとしても、それに何の応答もしなければ、結果として心は固くなります。そして、心を固くすればするほど、ますます鈍くなっていきます。

やがて、御言葉を受け入れられなくなってしまうのです。その結果どうなるでしょうか。私たちは未成熟で、不完全な人生、壊れた人生を送ることになるのです。

あなたはどうでしょうか。あなたは、ただ御言葉を聞くだけですか。それとも、その御言葉を実践していますか。

神様は、私たちが完全で健全な人生を送ることを願っておられるのです。けれども、私たちが心を固くするならば、それは実現しないのです。

あなたは、成熟した人でしょうか。

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