多くのクリスチャンは、旧約聖書を読むときに、その内容が本当に重要なのか疑問に思うかもしれません。特に、幕屋や律法の細かな規定については、自分たちとは無関係に思えることもあるでしょう。
けれどもこの手紙の8章から10章にかけて、私たちは旧約聖書のそのような記述に深い意味があることを知ることができます。特に8章によれば、幕屋と律法は霊的な現実の「写し」と「影」だったのです。
この手紙の著者は、幕屋が天の現実を映し出す写しであり、影であることを明確に教えています。
もちろん、地上の幕屋は天そのものと比べれば取るに足らないものでした。けれども、その幕屋が天的な現実の写しであったからこそ、神様はモーセにこう命じられたのです。
よく注意して、山であなたに示された型どおりに、すべてのもの(つまり、幕屋や祭壇や幕屋の用品など)を作らなければならない。(ヘブル人への手紙8:5)
けれども、写しと影であったのは幕屋だけではありません。私たちには理解しにくい多くの神の律法もまた、写しと影でした。
たとえば、「きよいもの」と「汚れたもの」に関する律法、ツァラアト(皮膚病)に関する律法、食物規定など、これらはすべて、罪や聖さについての霊的な描写だったのです。
神様の意図は、イスラエルの民がご自身のみ前で「きよい者」でなければならないという点にありました。
いけにえもまた、写しと影でした。前回の記事で触れたとおり、いけにえには実際に人の罪をきよめる力はありませんでした。むしろ、それらはいずれ来るイエス様の十字架の犠牲をあらかじめ描いていたのです。
最後に、神様とイスラエルとの契約そのものも、写しと影にすぎませんでした。その契約は、神様がどのような関係を私たちと持ちたいと願っておられるかを描写していました。
神様は彼らに数多くの律法を授け、人々は自分の力でそれを守ろうと努めました。
そして、神様の約束はこうでした──もし彼らがその律法を守るならば、神様が彼らの神となり、彼らは神様の民となる。また、彼らは神の祭司となり、聖なる国民とされる、というものでした。
しかし、彼らはその律法を守ることができませんでした。そこで、神様はこう仰せられたのです。
見よ、その時代が来る。──主のことば──そのとき、わたしはイスラエルの家、ユダの家との新しい契約を実現させる。
その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握ってエジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。彼らはわたしの契約にとどまらなかったので、わたしも彼らを顧みなかった。
──主のことば──これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである。──主のことば──
わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。
わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。(8-12)
かつての契約においては、神様はイスラエルの民に律法を授けられました。しかし、新しい契約においては、神様ご自身が私たちの心を変え、その律法を私たちの内に刻んでくださるのです。
以前の契約のもとでは、祭司や預言者たちが主を知る方法を民に教えました。それでもなお、神様とイスラエルの間には距離があり、彼らは神様との親しい関係を持っていなかったのです。
ところが今、イエス様が私たちの大祭司です。イエス様は私たちを天の父の御前へと導いてくださいます。ですから、私たちは天の父なる神と親しい関係を持つことができるのです。
もはや、私たちは不完全な「写し」と「影」に頼る必要はありません。イエス様にあって、私たちは真の現実を知るのです。
イエス様の十字架の働きによって、私たちの心はきよめられ、神様との親しい交わりに招かれています。だからこそ、心から喜びましょう。
そして、毎日、神様に近づいていきましょう。
