前回の記事で学んだように、地上の幕屋は、天にある真の幕屋の「写し」と「影」にすぎませんでした。
ヘブル書の9章では、幕屋がどのようにその真の幕屋の「写し」と「影」であったかが示されます。
契約の箱は神様の臨在を象徴するものでした。神様は、その箱の蓋の上にあるケルビムの間にお座りになると語られました。そしてその箱は、幕屋の至聖所に安置されていたため、至聖所は神様がおられる場所と見なされていたのです。
そのため、祭司以外の者は聖所に入ることが許されませんでした(聖所は至聖所の前にある空間です)。
さらに、大祭司だけが至聖所に入ることを許されていましたが、それも年に一度だけのことでした。それは贖罪の日です。その日、大祭司はイスラエルの民の罪のために特別ないけにえをささげました。
この手紙の著者は、これらの制度に込められた深い霊的意味を説明しています。
聖霊は、次のことを示しておられます。すなわち、第一の幕屋が存続しているかぎり、聖所への道がまだ明らかにされていないということです。(へブル人への手紙9:8)
言い換えると、その幕屋は、ある意味で神様との関係における障害でした。
聖所と至聖所の間には垂れ幕が垂れ下がっていました。その垂れ幕によって、ほとんどの祭司たちですら神様の臨在から遠ざけられていたのです。まして、普通のイスラエルの民は聖所に入ることさえできませんでした。
ソロモンの神殿でも、エズラの神殿でも、ヘロデ王の神殿でも、聖所と至聖所の間には同じように垂れ幕がありました。
その物理的な障壁は、私たちと神様との間にある霊的な障壁を描き出していたのです。すなわち、私たちは罪によって神様から隔てられていたのです。
しかし、次回の記事で見ていくのは、イエス様がその障壁を取り除いてくださったということです。
その前に、もう二つの重要な点について触れておきたいと思います。
一つ目は、至聖所に入るために、大祭司は二つのものの前を通らなければなりませんでした。それは、燭台と臨在のパンです。
燭台の火は絶えず灯しておかなければなりませんでした。
そして臨在のパンは、神様の臨在を描き出していました。つまり、それは神様が私たちにいのちを与えてくださることを意味していたのです。さらに、そのパンにはパン種が入っていませんでした。パン種は罪の象徴だったからです。
どうしてイエス様がご自身を「いのちのパン」や「世の光」と呼ばれたか、ご存じでしょうか。燭台と臨在のパンがイエス様を指し示していたからです。天の父のみ前に行くためには、私たちはイエス様を通して進まなければなりません。
二つ目は、大祭司がイスラエルの民の罪を贖うために雄牛の血を至聖所に携えて入ったように、イエス様は私たちの罪を贖うために、天にある至聖所にご自身の血を携えて入ってくださったということです。
だから、今やイエス様の御業によって、私たちは自由に天の父に近づくことができます。
おそらく、現代の多くのクリスチャンはこの特権を当たり前のものとして考えているでしょう。けれども、イエス様が来られる前には、人々はこのような特権を持っていなかったのです。
それを思うとき、私はパウロの言葉を思い出します。
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。(第二コリント9:15)
