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ヘブル人への手紙

写しと影(3)

へブル人への手紙9:11-10:18

これまで私たちは、「写し」と「影」について考えてきました。

まとめると、「写し」と「影」は現実をある程度描き出すことができます。たとえば、影は人の形を大まかに示すことができますし、おもちゃの電車は、本物の電車の働きを模倣します。

けれども、「写し」と「影」は、本物ができることをすべて再現することはできません。

人の影は話すことも聞くことも触れることもできません。おもちゃの電車は人を目的地まで運ぶことはできません。

同じように、ヘブル書の著者によれば、幕屋や捧げもの、生贄は、神様との関係を描く「写し」や「影」でした。

その描写によって、私たちは神様に近づくには何が必要かを知ることができました。しかし、それ自体には、私たちを神様に近づける力はありませんでした。

特に、神様への捧げものや生贄によって、私たちの良心が清められることはありませんでした。それらの捧げものと生贄は一時的なものであり、真のものが現れたとき、消え去るべきものでした(へブル人への手紙9:9–10)。

その「真のもの」とは何でしょうか。それこそが、キリストです。

イエス様はこの世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれたあと、天にある、より偉大で、より完全な幕屋に入られました。

そして、イスラエルの祭司たちとは異なり、イエス様はその幕屋で雄やぎや子牛の血ではなく、ご自身の血を捧げられました。

子牛と雄やぎの血は、物を儀式的に清めることはできましたが、イエス様の血は私たちの良心を実際に清める力を持っていました。だから、私たちは罪の罰から自由にされたのです(9:11–15)。

イエス様の流された血は、私たちの良心を完全に清めることができたので、その血は一度だけ捧げられれば十分でした。そしてその後、イエス様は天の父の右の座に座られました。なぜなら、イエス様は救いの働きを完全に成し遂げられたからです。

これに対して、イスラエルの祭司たちは、自分たちの務めを終えることができませんでした。むしろ、彼らは毎日、毎年、絶えず生贄を捧げ続けなければならなかったのです。なぜなら、子牛と雄やぎの血では、人々の良心を清めることができなかったからです。

その生贄によって、イスラエルの民は自分の罪と赦しの必要を思い出すと同時に、罪を本当に取り除くことができる最終的な生贄を待ち望んでいました(10:1–4)。

この手紙の著者は、イエス様のいけにえについて、こう語っています。

。。。キリストは聖なる者とされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に完成された。。。(へブル人への手紙10:14)

旧約聖書の時代、神様がいけにえを要求された理由は、それがイエス様とその十字架の御業を描き出すためでした。

けれども、今から2000年前、イエス様は来られて、天の父にこう申し上げられたのです。

今、わたしはここに来ております。。。神よ。あなたのみこころを行うために。(10:7)

そして十字架によって、以前のいけにえの制度は廃止され、イエス様は私たちを聖なる者とするために、完全ないけにえを捧げられました。

だから、私たちは希望を持つのです。この手紙の著者はこう語っています。

キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。(9:15)

また、

人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも多くの人の罪を負うために一度ご自分を捧げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を持ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。(9:27-28)

「写し」や「影」は、私たちに永遠のいのちの希望を与えることはできません。

けれども、イエス様にあって、私たちはその希望を確かに持っています。さらに、私たちはイエス様がいつの日か再びこの世に来られて、救いの計画を完成してくださることへの希望も抱いています。

ですから、どうか覚えていてください。私たちの希望は「影」や「写し」にではなく、イエス様ご自身にあるのです。イエス様こそが現実です。

だから、希望を見失いそうなとき、絶望に押しつぶされそうなときには、イエス様に目を向けましょう。そうすれば、あなたは決して失望させられることはありません(第一ペテロ2:6)。

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