さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。(へブル人への手紙11:1-2)
この箇所を見ると、多くの人々はこの言葉こそが信仰の定義だと考えます。
確かにそうかもしれません。けれども、私たちは「何を信じるか」について、どれだけ深く考えているでしょうか。もし私たちが信頼するものが実際には頼りにならないものであれば、私たちはどうして望んでいることを確信できるのでしょうか。
もし約束する方に、その約束を守る力がないとしたら、目に見えないものをどうして信頼できるでしょうか。
だからこそ、私たちの信仰は初めから終わりまで、神様に基づいているのです。
神様はどのような方でしょうか。神様は本当に存在しているのでしょうか。
仮に存在しているとしても、私たちを本当に愛しておられるのでしょうか。私たちは、そんな神様に信頼してもいいのでしょうか。神様はご自身の約束を本当に守ってくださるのでしょうか。神様には、その約束を守る力があるのでしょうか。
今日の箇所では、手紙の著者がまさにこのことに触れています。彼はこう語ります。
神に近づく者は、神がおられること。。。を、信じなければならないのです。(6)
この根本的な真理こそが、私たちの信仰の土台です。つまり、神様が実在されるということです。
けれども、それを信じていたとしても、神様は私たちのことを本当に愛しておられるのでしょうか。もしかすると、衝動的な思いつきで私たちを造り、その後、私たちのことを忘れてしまわれたのでしょうか。
この問いに対しても、手紙の著者は明確に答えています。
神に近づく者は。。。神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(6)
言い換えれば、神様は私たち一人ひとりに心を留めておられるということです。神様は私たちの行いに目を留めてくださいます。そして、私たちが神様を求めるなら、神様は私たちに報いてくださるのです。
しかし、神様が報いてくださりたいと思われても、果たしてその力があるのでしょうか。
そこで、私たちは3節にその答えを見出します。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。(3)
もし神様が、御自身の命令によって、すべてのものを目に見えないものから造られたのなら、神様には何でもおできになるはずです。
だから、この箇所において、私たちは信仰の土台を見ることになります。神様は確かに存在しておられます。神様は私たちを愛しておられます。神様は、ご自身が約束されたことを実現する力を持っておられます。
それゆえ、残る問いはただ一つです。私たちは心からその真理を信じるでしょうか。神様に信頼を置くでしょうか。
腕の良い職人が、もっとも頑丈な木を使って椅子を作ったとしても、その椅子に信頼を置かなければ、人は決してそこに座ろうとしません。
それと同じように、神様は確かに存在し、私たちを愛しておられ、約束を果たす力を持っておられます。私たちがそれを信じようとしまいと、それは変わらない現実なのです。
しかし、それを信じなければ、私たちは神様に信頼を置こうとはしないでしょう。
あなたはどうでしょうか。あなたはその真理を信じるでしょうか。あなたがこの問いにどう応えるかによって、あなたの神様との関係、そしてあなたの人生が形づくられていくのです。
次回の記事で、このテーマをさらに深めていきます。
