「神様は良い方です。」
「いつもです。」
「いつもです。」
「神様は良い方です。」
ある教会では、それが合言葉のように繰り返されています。
でも、私たちはその言葉を本当に信じているでしょうか。もちろん、物事が順調なときには、それを信じて熱心に語るのは簡単です。
でも、苦しいときはどうでしょうか。神様が何をなさっているのか、私たちに理解できないときはどうでしょうか。また、将来に不安を感じるときはどうでしょうか。
そのような時、私たちはなお、神様が良い方であることを信じることができるでしょうか。
私たちが自分の信仰を見つめ直すと、これは最も根本的な問いの一つと言えるかもしれません。
だからこそ、この手紙の著者は、こう語っています。
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(へブル人への手紙11:6)
「神は、ご自分を求める者には報いてくださる方である。」
言い換えるならば、神様は、ご自身の良さを信じる者に報いてくださいます。その人は、神様がご自身の約束を守ると信じます。その人は、自分の苦労が無駄ではないと信じます。その人は、自分の苦しみが意味あるものだと信じます。
神様は、そのような信仰者に報いてくださるのです。
どんなに私たちの境遇が厳しくても、神様を求めるほどに、その真理を信じ続けることができるでしょうか。そう信じない限り、私たちは神様を喜ばせることができません。
アブラハムは、そう信じました。
神様は、アブラハムの子孫がイサクの系統によって多くなると約束されました。しかし、ある日、神様はアブラハムに命じられました。「あなたの息子イサクを、生贄として捧げなさい。」
それは、イサクを神様の奉仕のために捧げるという意味ではありませんでした。アブラハムは、文字通り、イサクを殺し、生贄として捧げなくてはなりませんでした。
アブラハムは、本当に混乱していたことでしょう。その生贄を捧げる山に到着するまでには、三日間かかりました。その間、アブラハムは何を考えていたのでしょうか。
「どうして神様は、そんな命令をされたのだろうか。イサクの系統を通して、神様は私に多くの子孫を与えると約束された。でも、もしイサクが死んでしまったら、その約束はどのように成就するのだろうか。」
それでも、最終的にアブラハムはこう考えるに至りました。
「神様は良い方だ。神様は、ご自身の約束を守られる。だからこそ、もし私にイサクを殺すよう命じるなら、神様は必ずイサクを復活させてくださるだろう。神様は、いのちと死を支配される神だ。そして、やはり神様は良い方だ。」
そして、アブラハムがイサクを殺すために刀を振りかざしたとき、天使は彼に告げました。「あなたの手を、その子に下してはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れていることを、よく理解した。」(創世記22:10–12)
神様は、確かに良い方でした。
イサクは、そのような経験をしたので、将来がまだ不明だったにもかかわらず、息子たちヤコブとエサウを祝福することができました。
彼は、神様が約束された地をまだ受け取ってはいませんでした。所有していたのは、父アブラハムが買った小さな土地だけでした。それでも、イサクは神様が良い方であることを信じ、息子たちを祝福しました。
ヤコブは、さまざまな試練に直面しました。ある試練はヤコブ自身のせいでしたが、ある試練は彼の責任ではありませんでした。それでもヤコブは、自分に対する神様のいつくしみと忠実さを見たのです。
だから、死ぬ直前に、その確信を持って、息子たちを祝福しました。
あなたはどうでしょうか。どんなことを経験しているのでしょうか。心から「神様は良い方だ」と言えるでしょうか。神様が忠実な方だと信じられるでしょうか。神様があなたへの約束を守られると信じているでしょうか。
それらを信じなければ、あなたは神様を喜ばせることができません。
あなたは、どんな信仰を持っているのでしょうか。
