すべてのコインには二つの面があります。神様の救いの賜物も同じです。
神様の永遠の命の賜物を受けるなら、私たちは神の子とされ、神の相続人となり、永遠の遺産をいただくことになります。
その一方で、その賜物を拒むなら、私たちは裁かれます。
その遺産は実に素晴らしいものです。そして、イエス様が私たちを愛し、十字架でその代価を払ってくださったことを覚えるなら、どうして人々はその賜物を拒むのでしょうか。
けれども、多くの人々はそうしてしまいます。彼らは永遠のものを、一時的なものと取り替えるのです。彼らは神様のために生きるのではなく、自分自身のために生きます。
しかし、その結果、彼らは神様だけではなく、周りの人々を、そして自分自身までも傷つけてしまいます。そのため、彼らが死ぬとき、裁きに直面することになるのです。
私たちは生きている間に、悔い改める時間が与えられています。けれども、死ぬならば、もう悔い改める時間はなくなり、永遠の遺産を受ける可能性も消えてしまいます。
エサウのように、多くの人々は涙ながらにその遺産を求めますが、その時にはもう遅いのです。
この手紙は、9章27節でこう語っています。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが決まっている。。。(へブル人への手紙9:27)
だから、この箇所において、手紙の著者は私たちに警告を与えています。
あなたがたは、語っておられる方を拒まないように気をつけなさい。
地上において、警告を与える方を拒んだ彼らが処罰を免れなかったとすれば、まして、天から警告を与える方に私たちが背を向けるなら、なおのこと処罰を免れられません。。。
私たちの神は焼き尽くす火なのです。(25-29)
神様が「焼き尽くす火」と例えられるのはなぜでしょうか。それは、焼き尽くす火が神様の聖さと裁きを描写しているからです。
神様がシナイでモーセに律法を与えたとき、私たちはその描写を目にします。また、神様がアロンの息子たちを裁かれたとき、あるいはイスラエルの敵に対して怒りを示されたときにも、同様の描写が現れます。
そして、この箇所にも、神様の聖なる火の描写を見ることができます。
もし神様を拒み、その命の賜物を退けるなら、残るのは裁きしかありません。
それは誰も聞きたくないことです。多くの人は神様の愛だけを聞きたいと思うのです。
しかし、神様は反逆と罪を裁かなくてはなりません。イエス様にあなたの罪の代価を払っていただかない限り、あなた自身がその代価を払わなければなりません。ほかに選びはありません。
あなたはどうするでしょうか。
