ヘブル人への手紙13章3節では、私たちはクリスチャンの兄弟姉妹を愛する一つの方法を教えられます。手紙の著者はこう語ります。
牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやりなさい。また、自分も肉体を持っているのですから、虐げられている人々を思いやりなさい。(へブル人への手紙13:3)
特に、この著者は牢に入っているクリスチャンの兄弟姉妹について語っています。彼らは自らの信仰ゆえに投獄されていたのです。そして著者は、読み手たちにこう促します。「その人たちを忘れてはなりません。」
第二テモテ書を読むと、パウロが牢にいたとき、多くのクリスチャンが彼を見捨てたことが記されています。
もしかすると、パウロとの関係のゆえに、そのクリスチャンたちは自らも投獄されることへの恐れを抱いていたのかもしれません。また、パウロの状況を見て絶望を感じた結果、彼を避けたいという思いがあったのかもしれません。
それでも、この著者は明確に語ります。「彼らに対する愛を持ち続けなさい。決して彼らを見捨ててはなりません。」
これこそが、この著者のメッセージなのです。
けれども、私がこの箇所を読んだとき、神様は別の応用を示してくださいました。私たちの周りには、さまざまな形の「牢」に入っている人々がいます。
ある人々は、感情の牢の中で苦しんでいます。
ある人々は、病気に悩まされています。
ある人々は、困難な状況に陥り、何をすれば良いのか分からずにもがいています。
そういった人々を前にすると、私たちはどう関われば良いか分からず、距離を置いてしまうことがあります。なぜなら、彼らを支えることは苦しく、難しいことだからです。
しかし、神様は私たちに語りかけておられます。「その人たちを心に留めなさい。彼らを遠ざけてはなりません。訪れて、できる限り支えなさい。
たとえ何をすれば良いか分からなくても、何と語れば良いか分からなくても、彼らとともにいて、愛を示しなさい。」
ある人々は霊的な牢に閉じ込められています。サタンが彼らを捕らえ、罪の中に陥れています。
私たちも、かつてはその状態にありました。そして私たちは、あの時のことをよく覚えているはずです。サタンは私たちにも苦しみを与えました。
だからこそ、私たちはその人たちを心に留めていなければなりません。彼らが自由になれるよう、神様の愛をもって手を差し伸べましょう。
あなたはどうでしょうか。牢に囚われている人々を覚えているでしょうか。彼らにイエス様の憐れみを示しているでしょうか。
それとも、彼らを遠ざけてしまっているでしょうか。
イエス様の言葉を思い起こしましょう。
あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。(マタイ5:7)
