イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(へブル人への手紙13:8)
これはとても有名な聖句です。そして、私もこの言葉が大好きです。なぜなら、それを読むと、私の主が決して変わらないことを思い出すからです。
多くの人々が悪い方向へと変わりつつあるこの世界にあって、この言葉は本当に心強いものです。
けれども、私たちは常にイエス様に頼ることができます。そして、イエス様の御言葉を信じることができます。なぜなら、イエス様はいつも私たちに対して忠実だからです。
だから、この手紙の著者はこう語っています。
神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。(7)
私たちの指導者たちの人生を変えてくださった主、彼らの人生に働いておられる主、そして彼らを通して働いておられる主は、私たち自身をも変え、私たちの人生に働き、私たちを通しても働かれます。
ですから、私たちがリーダーたちの信仰を見て、神様が彼らの人生にどのように働かれたかを見ると、私たちは励まされます。
なぜなら、もし私たちが信仰によって歩むなら、私たちの人生にも、神様の働きと忠実さを見ることができるという確信が与えられるからです。
だから、この手紙の著者はこう語っています。
様々な異なった教えによって迷わされてはいけません。
食物の規定によらず、恵みによって心を強くするのは良いことです。食物の規定にしたがって歩んでいる者たちは、益を得ませんでした。(9)
要するに、イエス様は私たちに恵みのメッセージを与えてくださいました。イエス様は決して変わらない方ですから、イエス様のメッセージも変わることはありません。
イエス様が突然変わって、「これから、もし天の父との関係を望むなら、特別な食べ物を食べなければならない」と言われるはずがありません。
ですから、もし誰かが私たちを神様の恵みから離れさせる教えを伝えているなら、私たちはその人を避けるべきです。
私たちはもはや律法によってではなく、恵みによって生きています。救いを得るために神様を喜ばせようと努める必要はありません。むしろ、イエス様によってすでに救われた者として、私たちは感謝と愛をもって神様を喜ばせたいと願うのです。
そして、著者は、私たちがキリストによって受けた特権について語ります。
私たちには一つの祭壇があります。幕屋で仕えている者たちには、この祭壇から食べる権利がありません。(10)
この著者は何について語っているのでしょうか。彼は祭司や罪のためのいけにえについて語っています。
通常、祭司たちはいけにえの肉を食べることができましたが、贖罪の日にはその肉を食べてはなりませんでした。むしろ、その動物の体はイスラエル人の宿営の外で焼かれました。(11)
しかし、十字架という祭壇において、私たちはいのちのパンをいただきます。イエス様こそがその命のパンです。言い換えれば、私たちはイエス様のもとに来て、イエス様の十字架の働きを信じることによって、永遠の命を受けるのです。
ですから、この著者はこう語ります。
「私たちは、旧約の祭司たちが持っていなかった特権を持っています。彼らは贖罪の日のいけにえを食べることができませんでした。けれども、イエス様にあって、比喩的に私たちはそれをいただくことができるのです。」
そしてこの著者は、「変わらないキリスト」という主題に再び立ち返ります。
それでイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。(12)
つまり、イエス様は、私たちの罪を贖うために、エルサレムの外でご自身を捧げられました。
ですから私たちは、イエスの辱めを身に負い、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(13)
言い換えれば、この世の罪や快楽を捨て、イエス様のもとに進みましょう。そして、イエス様が苦しまれたように、私たちも苦しみを受け入れる心構えを持ちましょう。
イエス様は、私たちのために待っておられます。
私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。(14)
この世は、私たちの本当の住まいではありません。私たちの真の住まいは天の御国です。
そして、やがてその御国はこの地に来て、イエス様が永遠にこの世界を治められます。
著者は、この真理を次のようにまとめています。
それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。
善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。(15-16)
だからこそ、私たちは毎日、言葉と行いによってイエス様をほめたたえましょう。
イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。(8)
