この手紙の中で、ペテロは、その読み手たちが苦しむとき、キリストの模範に従うよう促しています。私たちは人々を恐れるのではなく、むしろ、心の中でキリストを主とすべきです。
なぜ、私たちはそうすべきなのでしょうか。それは、私たちの周りの人々が生きるためです。つまり、彼らもまた、私たちが見出したイエス様にある命を見つけることができるようにするためです。
そのために、私たちのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をするべきです。
周りの人々が、私たちが喜んでキリストのために苦しむ姿を見ると、なぜ私たちがそのようにするのか尋ねるでしょう。そのとき、神様は彼らの人生に働きかける機会を与えてくださるのです。
だからペテロは私たちにこう促します。「神のみこころであるなら、善を行って苦しみを受けましょう。そうすれば、周りの人々はそれを見て、魅了され、神の国に入るかもしれません。」
イエス様は、私たちにとって最終的な模範でした。
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした。(ペテロの手紙第一3:18)
言い換えると、「分からないのでしょうか。イエス様の苦しみによって、天国の門はあなたに開かれたのです。だから、周りの人々のために同じように行いましょう。」
そして、苦しみの後に待っている私たちの最終的な勝利について話した後、ペテロはこう言います。
キリストは肉において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉において苦しみを受けた人は、罪との関わりを断っているのです。(4:1)
簡単に言えば、イエス様が私たちの救いのために喜んで苦しみを受けられたように、私たちも同じ態度を取るべきです。私たちの罪を捨て、自分のために生きることをやめなくてはなりません。むしろ、神様のために生きましょう。(4:2)
ペテロは続けます。
「今まで、あなたがたは一生を棒に振るようにして、好色、欲望、泥酔、遊興、宴会騒ぎ、律法に反する偶像礼拝などにふけってきました。
そして、あなたの友人たちは、あなたの優先順位が変わり、もはや彼らと一緒にその罪にふけらないことに驚いています。さらに、彼らはあなたを馬鹿にしたり、迫害したりするかもしれません。」(4:3-4)
しかし、ペテロは私たちにこう思い出させます。
彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。(5)
裁きの日は必ず来ます。イエス様を拒絶したがゆえに、人々は裁かれるのです。だからこそ、ペテロは再び私たちにクリスチャンとしてのミッションを思い出させます。
このさばきがあるために、死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。彼らが肉においては人間としてさばきを受けても、霊においては神によって生きるためでした。(4:6)
どうして私たちは福音を人々に宣べ伝えるのでしょうか。それは、自分の体が死んでも、彼らが神様との永遠のいのちを得るためです。
その真理を忘れてはなりません。裁きの日は迫っています。私たちは救われているかもしれませんが、まだ多くの人々が救いを受けていません。
私たちはその人々のために何をしているのでしょうか。キリストの愛で彼らに触れ、イエス様の愛を示しているでしょうか。彼らは私たちの人生を見ることで、イエス様に魅了され、私たちの信仰の理由について尋ねるでしょうか。
それとも、もしかしたら、私たちはただ自分勝手に生き、他の人々が地獄に行くかどうかを気にしていないでしょうか。
神様は彼らを愛しておられました。イエス様をこの世に送るほどに、神様は彼らを愛しておられたのです。
私たちは、同じように彼らを愛しているでしょうか。
