私たちの信仰のために、人々が私たちをあざ笑うとき、私たちが落胆してしまうのは簡単なことでしょう。また、自分の信仰ゆえに迫害されるとき、「どうして」と問いかけたくなるのも自然なことです。
「どうして神様はそれを許しておられるのだろうか。どうして神様は、私たちが苦しむことを許しておられるのだろうか。いつまで、私たちは我慢し続けなければならないのだろうか。」
今日の箇所では、いくつかの答えを見つけることができると思います。ペテロは、私たちが受ける苦しみや迫害をキリストとノアが経験した苦しみや迫害と例えています。ペテロはこう言いました。
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちのために身代わりとなってくださったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされ、あなたがたを神に導くためでした。
その霊においてキリストは、捕らわれている霊たちのところへ行き、宣言されました。それは、かつてノアの時代、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに従わなかった霊たちのことです。
その箱舟に入ったわずかの人々、すなわち八人が、水を通して救われました。
この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。
イエス・キリストは天に上り、神の右におられます。御使いたちも、もろもろの権威と権力も、この方に服従しているのです。(18-22)
ノアが迫り来る裁きと、箱舟による神様の救いを周りの人々に伝えたとき、きっと彼はからかわれ、迫害されたに違いありません。
大洪水が来るまでの何年もの間、彼は迫害され、苦しんだでしょう。どうしてでしょうか。それは、神様が忍耐をもって人々の悔い改めを待ち続けておられたからです。
しかし、最終的に彼らは悔い改めず、裁きの水によって滅ぼされました。
同じように、クリスチャンたちもイエス様のために苦しみ、その苦しみが長いと感じることがあります。でも神様は、今も人々が悔い改めるかどうかを見て、忍耐して待っておられるのです。
そして、ノアの時代の人々に裁きが降りかかったように、イエス様が再びこの世に来られるとき、人々は裁きを受けます。その裁きは確かなものです。おそらくこれが、「捕らわれている霊たち」の話のポイントではないでしょうか。
その「捕らわれている霊たち」が誰であるかについては、少し不明瞭です。
ある学者たちは、その霊たちが人間の女性たちと関係を持ち、罪を犯した堕天使たちであると考えています。ほかの学者たちは、その霊たちはノアの時代に生きていた普通の人間だったと解釈しています。
いずれにせよ、これらの霊たちは霊的な牢に閉じ込められ、神様から遠く離れ、裁きを待っている状態です。
ある学者たちは、キリストがその牢で宣言をされた際、その霊たちにもう一つの悔い改めの機会を与えられたのではないかと推測しています。
けれども、聖書によれば、死後に新たな悔い改めの機会はないとされています(ヘブル9:27)。
おそらく、ペテロが意味したのは、キリストが神様を拒絶した霊たちに対し、御自身の最終的な勝利を宣言されたということでしょう。それを聞いた彼らは、自分たちの運命が完全に決定されたことを悟ったのだと思われます。
しかし、ノアが裁きの水を通して救われたように、イエス様を信じる人たちも、裁きを通して救われるのです。
ペテロによれば、バプテスマはその裁きによる救いを象徴しています。つまり、神様の裁きを通して、この世が清められ、すべてが新しくされるということです。
これこそが私たちの希望です。最終的に、私たちを悔い改めずに迫害する人たちは裁かれます。そして、イエス様を信じる人たちが、神様から恵みと憐れみを受けるということです。
けれども、その日が来るまで、神様は忍耐を持ち、できるだけ多くの人々に恵みと憐れみを与えるために待っておられます。
私たちの苦しみは一時的なものです。ですから、絶望しないでください。
たとえイエス様とその福音のために苦しむことがあっても、それは無意味ではありません。なぜなら、イエス様は王であり、すべての天使たちや、もろもろの権威と権力がイエス様に服従しているからです。
今、私たちの目にはそれが見えないかもしれません。けれども、いつか必ずそれを見る時が来ます。
だから、へブル人への手紙の著者の次の言葉を心に留めておきましょう。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅れることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」
しかし私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(へブル10:37-39)
