多くの人々は、自分の人生における神様の御心を知りたいと願います。
けれども、神様の御心について考えるとき、彼らが求めるのは、「私はどの仕事を選ぶべきか」「誰と結婚すべきか」「どの奉仕活動に参加すべきか」といった具体的な問いに対する答えです。
しかし、ペテロが神様の御心について語るとき、そうした具体的なことには触れていません。むしろ、ペテロは神様の御心を、神様に栄光を与えるために生きることだと定義しています。
多くの人々は「神様の御心を知りたい」と言いながらも、日常生活において、神様の栄光ではなく、自分の栄光のために生きています。
では、どのようにすれば私たちは神様の栄光のために生きることができるのでしょうか。
まず第一に、私たちは互いに愛し合うべきです。ペテロはこう言いました。
何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。(ペテロの手紙第一4:8)
ギリシャ語で「熱心」という言葉には、限界を超えるというニュアンスが含まれています。たとえば、ランナーが競走で勝つために自分の限界を超え、さらに速く走ろうとするようなものです。
そのように、私たちも自分の愛の限界を超えて、互いに愛し合うべきなのです。
そのようにしていく中で、私たちは多くの罪を覆います(8b)。つまり、愛によって、私たちは相手の罪や欠点を寛大な心で受け入れ、許すことができるのです。
また、私たちがキリストを知らない人々にイエス様の愛を示すなら、彼らはイエス様に魅せられるかもしれません。そして彼らがイエス様に向かうと、イエス様は彼らの人生に働きかけ、彼らの罪を清めてくださいます。
この意味においても、愛は人々の罪を覆う力を持っています。
いずれにせよ、人々への私たちの愛を通して、私たちは神様に栄光を与えることができるのです。
ペテロは続けてこう言います。
不平を言わないで、互いにもてなし合いなさい。(9)
私たちが苦しんでいるとき、気前の良い態度で人々を助けるために自分を捧げることは、とても難しいかもしれません。しかし、キリストの模範に従い、たとえ苦しみの中にあっても自分自身を捧げるならば、私たちは神様に栄光を与えるのです。
最後に、ペテロは私たちに、神様から与えられた賜物を忠実に活用し、互いに仕え合うことを思い出させます。ペテロはこう言いました。
語るのであれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕するのであれば、神が備えてくださる力によって、ふさわしく奉仕しなさい。
すべてにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。この方に栄光と力が世々限りなくありますように。アーメン。(11)
言い換えれば、私たちのすべての賜物が神様から与えられたものであることを忘れてはなりません。
また、その賜物が効果的に用いられるのは、神様の力だけによるということを覚えておく必要があります。その結果として、人々は私たちを称賛するのではなく、神様をほめたたえるようになるのです。
あなたはどうでしょうか。神様の御心を知りたいと願っていますか。神様の御心とは、主に仕事や結婚、あるいは日々の細かな決断に関することではありません。むしろ、簡単に言えば、神様の御心とは次のようなものです。
あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(第一コリント10:31)
あなたは何のために生きているでしょうか。
