以前の記事で、私は、神様がこの世の悪や不正義に対して何もしないという人々の文句について話しました。
しかし、私が指摘したのは、最終的に正義が行われ、その真理が確かなものであるということです。イエス様を信じる人にとって、それは希望です。けれども、イエス様を拒絶する人にとって、それは恐れです。
とはいえ、ある人々は裁きの日について考えるとき、希望も持たず、同時に恐れも感じていません。ペテロはそのような人々について次のように言います。
まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」(ペテロの手紙第二3:3-4)
今なお、そのような人々がいます。実際、イエス様が2000年以上も来ていないため、不信者たちのあざ笑いはさらに増えていることでしょう。しかし、ペテロは次のように言います。
こう主張する彼らは、次のことを見落としています。天は大昔からあり、地は神のことばによって、水から出て、水を通して成ったのであり、そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました。
しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。(5-7)
その人々によれば、神様はこの世のことに決して介入しないので、この世には何も変わらないと言います。けれども、その考え方は間違っています。
この世を造られたとき、神様の力によって、大陸は海から現れ、生き物を支える大気が造られました。
そして、悪がこの世に横行した時、神様は再び介入され、大洪水によってノアとその家族以外のこの世の人々を滅ぼされました。
だから、ペテロは私たちに警告します。「神様はもう一度、介入されます。けれども、今度の裁きは火による裁きです。」
ペテロは次のように言います。
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。(10)
また、
そのようにして、神の日が来るのを待ち望み、到来を早めなければなりません。その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。(12)
私たちがペテロの言葉を文字通りに解釈した方が良いかどうかは分かりません。けえども、明らかなのは、私たちが知っているこの世は終わりを迎えるということです。
もしかすると、神様はこの世を完全に新しくされるのかもしれません。または、神様がすべてを滅ぼし、全く新しいものを造られるのかもしれません。
いずれにしても、ペテロは次のように言います。
しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(13)
では、どうしてクリスチャンたちはこれほど長く待たなければならないのでしょうか。なぜ神様は、今この世を滅ぼし、すべてを新しくされないのでしょうか。
ペテロはその答えを示しています。
しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(8-9)
また、
私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(15)
基本的に、ペテロが言っているのは、神様の忍耐によって、人々に悔い改める時間が与えられているということです。けれども、その忍耐はまるで両刃の剣のようなものです。
もちろん、その忍耐によって、人々は神様を信じるための時間を与えられています。そのため、裁きの日が来る前に、多くの人々が救われます。
けれども、その一方で、人々の責任は増していきます。そのため、不信者たちは裁かれる時、言い訳をすることはできません。
だからこそ、私たち全員が自分自身に問いかけなければなりません。「神様がこの悔い改めの時間を与えてくださっている中で、私はどうするのだろうか?」
あなたはどうするのでしょうか。
