これは聖書に記されている最後の長い手紙です。
そして、この手紙の初めから、私たちは使徒ヨハネの情緒を感じ取ることができます。イエス様に愛された弟子と呼ばれた使徒はこう言われます。
初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。
このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。(ヨハネの手紙第一1-2)
「いのちのことば」とはイエス様です。イエス様ご自身は、いのちの表現です。イエス様にあって、私たちはいのちがどのようなものであるべきかを分かります。イエス様にあって、私たちは完全で不備のないいのちを見ることができます。
いのちの創造者である神様は、いのちの言葉であるイエス様を通してご自身を表されます。
また、イエス様ご自身がいのちです。
だから、ヨハネは、「このいのちが現れました」と言うと、イエス様の受肉について話しています。つまり、イエス様が人間としてこの世に来られたことです。
だからヨハネやほかの使徒たちは自分の耳でイエス様の声を聞き、自分の目でイエス様を見、復活の後、自分の手でイエス様の手の傷跡に触れることができました。
そして、ヨハネは、イエス様を「永遠のいのち」と呼びます。イエス様は永遠の方で、時間が始まる前から天の父と共におられました。
また、イエス様は死んだ者にいのちを与えてくださいます。もちろん、神様はご自身から遠く離れている霊的に死んでいる人たちにいのちを与えてくださいます。
しかし、ある日、イエス様は肉体的に死んだ者たちにいのちを与えてくださいます。つまり、イエス様がご自身のような体を彼らに与えてくださるのです。
それを考慮に入れると、ヨハネはこう言います。
私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。
私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。(3-4)
ヨハネと他の使徒たちは神様との関係をただ楽しみたいとは思いませんでした。むしろ、ほかの人々も神様との交わりを得るまで、使徒たちは自分の喜びが完成されたものではないと考えました。
そういうわけで、彼らは大胆に自分が見たことと聞いたことを宣言しました。
私たちは彼らの模範に従うべきです。
多くのクリスチャンたちは救われて、とても嬉しいです。彼らが神様の愛と赦しを受け、とても幸せです。また、神様が彼らの傷を癒してくださり、彼らは喜びます。
しかし、それだけで私たちは満足してはいけません。それは自己中心的な態度です。
たくさんの人々が神様から遠く離れて、毎日死んでいます。彼らは神様の愛を知らず、神様の赦しを知りません。また、彼らは神様からの癒しを知りません。私たちは彼らを哀れむべきです。
だから、ヨハネと他の使徒たちのように、私たちは与えられたいのちを宣言するべきです。そうすれば、周りの人々も神様との関係を得るでしょう。
あなたはどうでしょうか。救いが必要な周りの人々に気づかないほどに、あなたは自分の救いを喜びますか。
この世の人々の所に行きましょう。私たちの愛している人々にイエス様のことを宣言しましょう。私たちの近所や職場や学校にも行って、イエス様を宣言しましょう。そうすれば、人々が神様の御国に入って、私たちの喜びは満ち溢れるでしょう。
