前回の記事で、私たちが学んだのは、私たちが光の子どもとして生きるように呼ばれているけれども、まだ罪に落ちる時もあるということです。その時、私たちが悔い改めるなら、神様は私たちを赦してくださいます。
今日の箇所では、私たちはその赦しの基礎を見ることができます。ヨハネはこう言いました。
私の子供たち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとなりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます。
この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のための宥めのささげものです。(ヨハネの手紙第一2:1-2)
ヨハネは改めて強調します。私たちは光の子どもだから、暗闇の中で歩んではいけません。
しかし、そのあと、ヨハネは心強い言葉を伝えます。それは、私たちが罪に落ちるとき、私たちを擁護する方がおられるということです。イエス様は御父の前で、私たちのためにとりなしてくださいます。
では、その擁護のよりどころは何でしょうか。それは、十字架でのイエス様の宥めのささげものです。
それはどういうことでしょうか。
その時代、いろんな国では、人々は神々の怒りを宥めるため、また神々のご恩を得るために、さまざまな生贄を捧げました。
ヨハネは同じ描写を使いますが、大きな違いがあります。私たちはその生贄を捧げるのではありません。むしろ、神様ご自身が自分の怒りを宥めるために、その生贄を捧げられました。そして、その生贄によって、神様はもう一度私たちに恵みを与えてくださいます。
天の父による救いの働きを伏線する話として、アブラハムはこう言いました。
神ご自身が、全焼のささげ物の羊を備えてくださるのだ。(創世記22:8)
十字架で、天の父はその羊を備えてくださいました。義なるイエス・キリストがその羊でした。イエス様は罪を犯したことがなかったのに、私たちの罪の罰を受けてくださいました。イエス様が十字架につけられた時、神様はご自身の怒りのすべてをイエス様に注がれました。
その結果は何でしょうか。イエス様は天の父の前に私たちと共に立ち、こう言われます。「私はその人の罪の代価を払いました。」
天の父は答えられます。「あなたの支払いを受け入れます」
そして、天の父は私たちの罪を赦すだけではなく、私たちに愛を注いでくださいます。
それは憐れみです。それは恵みです。その恵みと憐れみは神様の子どもたちに属します。イエス様を通して、私たちはその恵みと憐れみを受けるのです。
だから感謝をもって、私たちを救った神様に仕えましょう。イエス様のようになるように努めましょう。
