どうすれば、自分が本当に神の子どもであると分かるでしょうか。どうすれば、自分が確かに救われていると確信できるでしょうか。
私は7歳のときに救われましたが、長い間、自分が救われているのかどうかを疑っていました。
けれども、今日の箇所で、ヨハネはその疑問に答えています。
あなたがたは、神が正しい方であると知っているなら、義を行う者もみな神から生まれたことが分かるはずです。(ヨハネの手紙第一2:29)
原語では、そのニュアンスは、神の子どもがいつも義を行うという意味ではなく、むしろ義を行うことがその人の習慣であるということです。
言い換えると、もしあなたが本当に救われているなら、あなたの人生は義によって特徴付けられているはずです。周りの人々があなたを見ると、信仰を実践して義を行う人として映るでしょう。
これに対して、この世の人々の生活は全く異なります。だからこそ、ヨハネはこう言っています。
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(ヨハネの手紙第一3:1)
私たちが神の子どもとして、自分の信仰を実践し、義を行うと、この世の人々は私たちを見て戸惑うでしょう。彼らはなぜ私たちがそのように生きているのかを理解できません。なぜなら、彼らは神様を知らないからです。
もし彼らが神様を知らないのなら、私たちのことも理解できないはずです。
ヨハネは続けてこう言います。
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(3:2)
神の子どもとして、私たちが義を行う動機は何でしょうか。私たちは天国を得るためにそうしているのでしょうか。私たちは周りの人々に感動を与えようとしているのでしょうか。
そうではありません。むしろ、ヨハネによれば、私たちの動機は神様に対する愛です。神様はご自身の愛を私たちに豊かに注ぎ、私たちをご自身の子どもと呼んでくださいます。
さらに、私たちはいつか愛するイエス様のようになる希望を持っています。イエス様が再びこの世に来るとき、私たちは新しい体を受けます。その体はイエス様の栄光を反映し、私たちは完全に義人となります。
ある人々はこう考えます。「どうして罪と戦わなくてはならないのだろう。私はその罪を決して克服できないだろう。」
ところが、あなたがクリスチャンなら、その考え方は間違っています。ある日、あなたは完全になるのです。私たちには希望があります。
ヨハネによれば、真の信者たちはその希望を持っているので、キリストが清い方であるように、自分も清くなりたいと思います。(3:3)
れっきとしたクリスチャンであるなら、皆そのように考えます。イエス様のように清くなりたいと思わないのであれば、自分がクリスチャンであると主張できるでしょうか。
ヨハネによれば、イエス様は罪を取り除くためにこの世に来られました。また、イエス様のうちには罪がありません。(5)
さらに、イエス様は悪魔のわざを打ち破るためにこの世に来られました。(3:8)
だから、人々が自分がクリスチャンであると自称しながら、あえて罪を犯し、イエス様が打ち破ろうとしているわざを推進するのはどうしてでしょうか。それはあり得ないことです。私はその人の救いを本当に疑います。
あなたはこう言うかもしれません。「ブルース、それは言い過ぎだ。人を裁いてはいけない。」
けれども、ヨハネの言葉を読んでみてください。
キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見たこともなく、知ってもいません。
幼子たち、だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しい方であるように、正しい人です。罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。(ヨハネの手紙第一3:6-8)
また、
神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(9節)
もう一度私は言います。ヨハネが意味しているのは、れっきとしたクリスチャンが決して罪を犯さないということではないのです。
それでも、れっきとしたクリスチャンは罪を犯したとき、すぐに後悔するはずです。彼らは悔い改め、その罪を避けたいと願うのです。
だから、ヨハネはこの話をこのようにまとめます。
このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(10節)
あなたは誰の子どもですか。
