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ヨハネの手紙第一

神の子どものしるし(2)

ヨハネの手紙第一2:28-3:24

前回の記事では、私たちが見たのは、神の子どものしるしが義であるということです。れっきとした神の子どもたちは、清くなりたいと願います。なぜなら、彼らが愛するイエス様が清い方だからです。

そして、罪に陥ったとき、彼らはその罪を後悔し、すぐに悔い改めます。

私が初めて汚い言葉を口にした時のことを、今でもよく覚えています。そのとき私は中学生で、意図的にそうしたことを覚えています。しかし、その後、私は罪悪感に駆られ、それ以来、二度とそのような言葉を使ったことはありません。

おそらく、その罪悪感を感じた理由は、私が神の子どもだからでしょう。本当のクリスチャンがあえて罪を犯す習慣を持つことはあり得ません。また、罪を犯すときには、本当のクリスチャンはすぐに悔い改めるはずです。

それでも、クリスチャンが罪を犯すこともあります。だからこそ、ヨハネは私たちにこう促します。

さあ、子どもたち、キリストのうちにとどまりなさい。そうすれば、キリストが現れるとき、私たちは確信を持つことができ、来臨のときに御前で恥じることはありません。(ヨハネの手紙第一2:28)

どうやって、私たちはイエス様のうちにとどまることができるでしょうか。ヨハネは3章の最後で教えています。

私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いに愛し合うこと、それが神の命令です。

神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。

神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(3:23-24)

ようするに、イエス様が現れるとき、確信を持って恥じることのないようにしたいのであれば、神様に従わなくてはなりません。また、神様の言葉に従わなくてはなりません。

神様は私たちに何を命じたのでしょうか。一番大切な命令は、イエス様を信じることです。私たちは自分の救いのためにイエス様を信じる必要があります。

実は、その信仰こそクリスチャンの最初のしるしです。人間の根本的な問題は、私たちが神様に背を向け、「私は自分の道を行く。私は自分のために生きる」と言うことです。

しかし、人がクリスチャンになると、その人の最初の決断は、その考え方を捨てることです。むしろ、その人はこう言います。「主よ。私の道ではなく、これからはあなたの道を行きます。」

その最初の段階は、神様がイエス様を通して与えてくださる救いの賜物を受け取ることです。その人は、自分の努力やほかの宗教によって救いを得ようという態度を捨てます。むしろ、その人は自分の救いのためにイエス様とその十字架の働きを信じます。

このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(3:10)

どうしてヨハネは、兄弟を愛するという命令を強調するのでしょうか。

一つの理由は、その命令がキリスト教のメッセージの中心であるからです。ヨハネはこう言います。

互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。(11)

それは上級者向けのキリスト教の教えではありません。それは初心者のための教えです。

さらに、私たちが本当にイエス様の愛を知っているなら、その愛は自然と私たちから流れ出るはずです。

ヨハネはこう言っています。

私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。 神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(3:16)

だからこそ、れっきとしたクリスチャンの確かなしるしは、周りの人々に対する愛です。

ヨハネはこう言います。

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。

だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(3:14-15)

あなたはどうでしょうか。あなたは神様の子どものしるしを持っているでしょうか。

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